「あのこは貴族」に見るニケツのシスターフッド 幸一郎はその松明を受け取るか

※本記事は『あのこは貴族』映画および原作の内容に触れております。ご了承の上、記事をお読みください。

岨手由貴子監督作「あのこは貴族」を鑑賞後、ひたひたと胸に満ちる多幸感に打ち震えていた。ついにやってくれた。わたしたちが生きる時代に、わたしたちが生きる国で、女性作家の手によって軽やかなシスターフッドの物語が描かれ、そしてその物語が女性映画監督の手によって映像化されたのだ。それも、緻密に考え抜かれた脚本と演出によって。

観客の先入観を逆手に取った、連帯の物語

「東京の箱入り娘が、自分の婚約者である御曹司とただならぬ関係にある地方出身の平民女子と相対する」というあらすじを読めば、まだまだ多くの受け取り手が思うことだろう、「ああ、御曹司を巡る三角関係、女同士のバトルね」と。そして、ある人は「キャットファイトが見られるぞ」とわくわくし、またある人は「またそのパターンか」とうんざりする。

女と女の敵対は、まるでそれが女の生まれつきの性質であるかのように、エンターテイメントとして消費されてきた。「あのこは貴族」のこの典型的とも言えるあらすじは、使い古された「いつものパターン」を想起させるに充分だ。

ところがどっこいこの作品は、まさに受け取り手のこの先入観をミスリードに利用し、そして軽やかに吹き飛ばして見せる。

「世の中には、女同士を分断する価値観みたいなものが、あまりにも普通にまかり通っている」 — — 。社会への真っ当な怒りとして提示される台詞のとおり、「東京の箱入り娘」榛原華子と、「地方出身の平民女子」時岡美紀は、決して穏やかでないきっかけで邂逅を果たすものの、いがみ合うでもなく、かといって意気投合して親友になるわけでもない。しかし、互いを見つけたあとの二人は、自分の人生を見るときに、確かに新たな視座を得ている。ここで御曹司・青木幸一郎は、二人の女性を引き合わせる装置に過ぎない。

美紀と出会わなければ、おそらく華子は幸一郎と結婚したあとの幽閉生活も、そういうものだと自分に言い聞かせ、受け入れてしまっていただろう(結婚後の華子が高級マンションにぽつねんと取り残された姿は、同じく2021年公開作で「格差婚の負い目もあり、カゴの鳥生活を余儀なくされる女性が、思いもよらぬ方法で主体性を取り戻す」物語である「Swallow/スワロウ」をあまりにも彷彿とさせる)。

そして美紀もまた華子と相対したことで、都合のいい女でいることから吹っ切れて、起業という道を選ぶことができたのだろう。女たちは、「対立していてほしい」という期待に応える必要など、ないのだ。

華子と美紀が邂逅する時間は、実はほんのわずかだ。それでも、互いの人生に決定的な影響をもたらす。わたしは、こういう多様なシスターフッドが見たかった。友達か敵かのどちらかでなくていい。その間には無数のグラデーションがあるはずだから。もう二度と出会わないかもしれなくても、道の反対側の見知らぬ二人組から手を振られて振り返したり、夜のベランダに並んでビルの影で欠けた東京タワーを見ながら棒アイスをかじる、そういうゆるやかな連帯があっていい。

「動」の原作、「静」の映画

原作のファンだったわたしは、正直に言えば、映画化の話を聞いて手放しに期待してばかりもいられなかった。華子役に門脇麦、美紀役に水原希子というキャスティングも、個人的には「逆では?」という違和感があった。しかし蓋を開けてみれば、門脇麦は、お膳立てされるがままふわふわと主体性なく「良い子」として生きてきたナイーブな上品さ、そして富裕層の狭い世界で培われたナチュラルボーン選民思想を体現した「お嬢様」そのものだった。

上京組のど根性娘・美紀を演じる水原希子の演技にも驚かされた。華子と対峙する時の、虚勢を張りつつ幼さを感じるほどに警戒の現れた表情への変化。父や元同級生から「俺の考える女の役割」を屈託なく押しつけられた時の、呆れてむっとしつつ、かすかに傷ついた視線。ふるさとの町に降り立ち、同級生の中でも明らかに「垢抜けた」美紀は、なるほど浮いている。しかし、この「都会の女」然とした立ち振る舞いこそ、まさに人一倍努力家の美紀が必死で身につけた賜物であり、同時に「もうここに自分の居場所はない」と悟る、自由と引き換えの孤高の証でもある。

キャスティングだけではない。岨手由貴子監督の脚本からは、本作を単なる原作のダイジェストに留めず映像作品として構築しようとする明確な意図を感じた。原作での結婚式の場面は「女性たちの結託によって幸一郎の鼻を明かす」という展開がケレン味たっぷりに描かれ、痛快なクライマックスとなる。しかし映画版では、結婚式当日の描写そのものが、ほぼ完全に省略されている。わたしは原作のこの場面が大好きだが、同時に、これは文字だから効果的なのであって、映像になるとこの展開自体のインパクトが大きくなりすぎるだろうということも理解できた。

披露宴という催しの白々しさを強調し、華やかさと裏腹の虚しさをこれでもかと見せつける原作が「動」なら、あれだけ華子が必死で目指してきた結婚式自体を「描かない」、正確に言えば、写真撮影の様子と、現像され額縁に収まった写真「だけ」を描くことで、それが華子にとっては単に「一族の体裁を保った証左」以上のイベントにならなかったことを表す映画版は「静」だ。

展開自体の起伏を強調する代わりに、本作では登場人物の状況や心情を理解するための情報は、全編に散りばめられたアイテムやモチーフの反復から、観客がそれぞれに暗示や示唆として拾い上げていけるようになっている。一見静かな場面でも、水面下では常に登場人物の感情や意思がさざめいているのだ。

たとえば、華子の見合い相手の、体に合っていないスーツの違和感。ここで何かあると思わせてからの、盗撮。「見る側」としての意識しか持たず、自分も見られる側であるという意識の欠落が、スーツの仕立てで示唆され、体に合った上等なスーツ姿の幸一郎との対比に繋がる。幸一郎に呼ばれて参加したパーティーでの、美紀のパンツスタイルも見逃せない。求められる役割がホステスとしてのそれであることをわかっていつつ、こういう場で美紀はドレスでなくパンツスタイルを選ぶ女なのだ。身につける衣装がこれほど人格を雄弁に語る。映像から受け取れる情報の豊かさが快感だった。

とりわけ印象深いのが、移動手段の描き方だ。富裕層の世界だけを見て育ち、親の指示通りに生きる華子は、物語冒頭では目的地まで躊躇なくタクシーで運ばれ、窓の外には無関心。それが後半では、自転車で疾走する美紀を見つけてタクシーを停め、ついに自分の意思で扉を開け、降りる。そして歩いたことのなかった家までの道を自分の足で歩く。最後には自らハンドルを握り、「三輪車に乗る友達の背中を押す」という描写から、未熟ながら友達を支えて自立しようとする華子の変化が表現される。

美紀の移動手段が自転車であることも重要だ。自分の足でペダルを漕いで、生き馬の目を抜く東京の街を、美紀はずっと一人で走り続けてきたのだ。一緒に上京した友人の里英が、「ダッサ!」と笑いながら美紀とニケツで自転車にまたがる場面は、思わず胸が熱くなった。ここで二人は交互にハンドルを握り、美紀は里英に背中を預ける。ダサくても、貴族でなくても、美紀には里英がいて、里英には美紀がいる。ジェンダーギャップ121位の日本を颯爽と駆けるのは、ニケツでチャリに跨る地方出身の女の子たちなのだ。

階級というシビアなグラデーションの可視化

階級を超えたシスターフッドの物語とはいえ、作中で美紀と華子が階級を「克服」するようなカタルシスは訪れない。華子はかなり一方的に美紀に助けてもらっているし、美紀と同郷の里英は東京の富裕層の女の子たちの仲間に入ろうと「うちは父が経営者で」と懸命にアピールするも、あえなく流されてしまう。

華子と美紀が出会ったとき、美紀はカトラリーを落とし反射的に拾おうとするが、華子はまったく身をかがめる素振りも見せず、給仕に拾うよう指示をする。身についたささやかな仕草一つで、二人が異なる世界で生きてきて、そしてこれからもそのままであろうことが暗示される。そして暗示のとおり、束の間の交流のあと、二人はそれぞれ元からの友人とパートナーを組む。

何世代も続いてきた棲み分けは、そう簡単には崩れない。美紀と里英だって決して「平民代表」というわけではなく、地元に残った大半の女の子たちからすれば、東京の私大へ進学するだけの経済的サポートを得ている時点で、棲み分けされた「別階層」なのだろう。格差にはグラデーションがあり、自分が突きつけられるまで気づかないのだ。

「あのこは貴族」が面白いのは、階級のことなんて意識して生きてこなかった華子が、上の階級である幸一郎との結婚を通して初めて、「下」である自分を意識するところだ。

ポン・ジュノ監督作「パラサイト 半地下の家族」では、住居の物理的な高低差で視覚的に格差を描いていたが、物語の舞台となる富豪の住居は、山の手とはいえ坂の中腹に位置しており、「まだ上がある」ことを示唆していた。榛原家も日本の富裕層の中ではあくまでも坂の中腹、あるいはもしかすると、中腹にも届かない地位に過ぎないのだろう。

興信所を「普通じゃない?」と言い放つ幸一郎のかたわらで内心ギョッとする華子はこの瞬間、5000円のアフタヌーンティーを気軽に利用する同窓生を前にギョッとする美紀と同じ立場にある。「あのこ」というのは、美紀をはじめとした一般庶民から見た華子を指す言葉であると同時に、華子から見た幸一郎を指す言葉にもなる。

映画版では特に幸一郎を指す意味合いが大きくなっていると見え、それは原作の英語版タイトルが「Tokyo Noble Girl」であるのに対し、映画版では「Aristocrats」という、性別も人数も規定しないタイトルになっているところからも窺える。

「役割の容れ物」から脱し、人間らしく生きること

そう、この青木幸一郎がくせ者だ。美紀からノートを借りて単位を取得するという搾取を学生時代から屈託なく働く、薄情なボンボンの浮気男なんて、普段なら憎しみ一択になるはずで、ここがホルガ村ならクマに詰め込んでお焚き上げにするところだ。ところが、高良健吾演じるこの空虚な男に、わたしは不思議と憐れみを覚えてしまった。

「親父には似たくない」とこぼす幸一郎は、「家の存続」のためだけに存在する空虚さを自覚してしまっており、彼の人生は使命感と諦観に覆われている。家のため国のため、個を消して全体のために駒になる、夢も人間性も持つことを許されていない「容れ物」こそ「男性性」であり、その担い手の末席にいるのが幸一郎である。

「本当はそんなイヤなやつじゃないと思う」という美紀の幸一郎評は、しかし「イヤなやつ」としてしか生きることのできない幸一郎の哀切を浮かび上がらせる。いや、こういう人物が空虚なままに政治家として国を牛耳ろうとしている以上、わたしは彼に同情を寄せる余地などないはずなのだが。ベランダで土の手触りを求めては「華子もどうせ、自分と結婚したのはそうしなければならなかったからだろう」とこぼす、ここまで恵まれた環境に身を置きながら、この自尊心の低さはなんなのだろう。

一歩先に「押し着せの役割」の容れ物から抜け出し、個人として歩みはじめた華子と再会した幸一郎が、ボーイズクラブのようなスーツ姿の男たちに取り囲まれ「先生」と呼ばれて踵を返す背中にはどうしても、がんじがらめの息苦しさから逃れられない滑稽さを見てしまう。システムのコアに近いところに生まれるほど、そこから抜け出すのは容易ではなく、また抜け出すうまみもないのだろう。

ラストシーン、視覚的高低差を利用しつつ、下りかけた階段の途中から見上げる華子と、手すりに隔てられた上階の廓のような空間で男たちに取り囲まれた幸一郎は、ただ見つめ合う。華子の正面顔にカメラが寄るラストカットは、華子が見合い写真を撮影するカメラを見つめ、「あのこは貴族」というタイトルが現れるオープニングの反復で、円環構造になっている。

しかし「一族から期待されるとおりに結婚をする」役割を果たすため、男性に選ばれるための正面顔だったオープニングと比べて、ラストカットの華子の眼差しからは、美紀から受け取った自我という松明を幸一郎にも渡そうとするような、祈りにも似た力強さを感じた。女たちは一足早く抜け出して、ニケツで駆け出した。男たちよ、あなたはどうする。

「あのこは貴族」は、社会階層や生まれた場所、属性ごとに分断され、対立構造に押し込められてきた女たちの物語だ。彼女たちの人生がほんの束の間交差し、それぞれが求められる役割から少しだけ逸脱して、人間らしく生きるために一歩踏み出す、希望と連帯の物語だ。2021年の日本で、この映画が封切られたことの意義深さを噛みしめる。

執筆=KellyPaaBio
トップ画像=Unsplashより

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