「アスリートは悪くない」と手放しで言っていいのか? ある柔道選手が感じた違和感
五輪には反対だ、と友人に話したら、「そうなんだ。でもアスリートは悪くないからね」と返ってきて、ため息をついた。
アスリートたちが5年間死に物狂いでやってきたであろうことは、私もわかっている。かつての仲間の試合を見ると、つい熱くなってしまうところもある。でも、五輪と社会が切り離せない以上、「アスリートは悪くない」と手放しで言っていいのだろうか。
就職をきっかけに気づいた、アスリートの世界の特殊性
私は10歳頃から10年以上、柔道をやってきたアスリートだ。高校生の頃には強豪校に入学するために上京し、毎日柔道漬けだった。高校でも、大学でも、つるむのは同じ柔道部の友人たち。あえて数字にするならば、今でも人間関係の95%以上が柔道関係者だと思う。
自分のいた世界の特殊性に気づいたのは、就職してからだ。
就職は、大学の部活の監督の紹介で、柔道部を持っている企業に決めた。その時点では、正直、「就職しても柔道が続けられる会社がいい」といったこと以外、ほとんど何も考えていなかった。しかし、入社してからは、予想だにしないことばかりで驚くこととなった。
男性と女性では採用される職種が初めから違い、給与に差があること。女性だけ制服を着せられ、配属された部署ではお茶汲みなどの業務もあったこと。首にリボンをつけさせられているというだけでも気が滅入るのに、上司に「結婚する相手はいないのか」「(特定の男性を指し)結婚するならああいう人がいい」などとセクハラめいたことまで言われること。
私自身クィアであることもあり、学生時代から社会問題に関心のあるほうだと思っていた。しかし、こうした経験をすると、それまでとは比べ物にならないくらい、社会やその中にある不平等が迫ってきた。
こうしたことを同性の柔道仲間に話しても、反応は鈍い。「考えすぎだよ」といった反応が大半で、ある友人に至っては、給与明細を勝手に見られ「えっ、ひっく!」と声をあげられた。
社会に対する怒りへの共感はほとんど皆無。柔道家としての競技レベルが高ければ高いほど、就職してからの待遇もいいものなので、「そんなところに就職せざるをえなかったのも、能力の問題」といった空気があるように感じた。
社会と切り離されている感覚、特権への無自覚
今振り返ると、アスリートの世界には総じてそういうところがあると思う。
私の周りでは選挙に行く人はほとんどいないし、自己責任論的な風潮は強い。ワクチンの順番が回って来ず、それでも毎日出社しなければならない人がいる一方で、トップ柔道選手は毎週PCR検査を受け、練習に励むことができるが、その特権を特権として認識しているかは疑わしい。
開催前から新型コロナの感染拡大を招くことが確実と言われた五輪に対しても、私の周りでは反対意見を一度も聞いたことがない。
7月に、五輪でサッカー男子日本代表のキャプテンを務める吉田麻也選手の「アスリートはやっぱりファンの前でプレーしたい。もう一度(有観客開催を)検討してほしい」という発言が物議を醸したが、こういった発言の背景には、アスリートの社会とは切り離されている感覚や、特権を持っているという意識の欠如があるのではないか。
そして、そういった面はもちろん自分にもある。
自分が社会の一部であると実感するようになったのもつい最近のことだし、柔道の練習時間に対して給与が発生するなど、会社でアスリートとして雇用されたことで得ている特権を当たり前のことだと勘違いしそうになることもある。
アスリート採用ではない同期を見ていると、1年目から将来のキャリアを見据えていて、真剣な就職活動もせずに入社させてもらえたことが、本来ありえない待遇だということにも気がつく。
自分を含めた、アスリートたちの意識が変わるには、全仏オープンを棄権し、メンタルヘルスの重要性を訴えた大坂なおみ選手のように、社会問題について訴えるアスリートが増えていくことが重要なのではないかと感じている。
また、アスリートがすぐに変わらなくても、社会の側から変化はあるだろう。これまで周囲から柔道をすることを期待されていた私も、新型コロナが感染拡大し、初めて練習を止められるという経験をした。
スポーツが社会と関係ないわけがない、と現在進行形で日々感じている。
話:わらび餅
取材・構成:Sisterlee編集部・妹
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