オリンピック開催後の今こそ考える、ドラマ『いだてん』に描かれたものと描かれなかったもの

Unsplashより

2021年7月23日、中村勘九郎が都庁前で行われた聖火リレー到着式の最終ランナーとして走り、オリンピック開会式で森山未來が「追悼」の意を込めてダンスパフォーマンスを行った。

この二人には、ある共通点がある。2019年の大河ドラマ『いだてん〜東京オリムピック噺〜』に出演していたことだ。

『いだてん』は、中村勘九郎演じる金栗四三と、阿部サダヲ演じる田畑政次の二人を軸に、日本のスポーツとオリンピックの歴史に、近現代史を重ね合わせながら描かれたドラマだ。

森山未來は、三人目の主人公ともいえるドラマのストーリーテラー・古今亭志ん生を、ビートたけしとともに二人一役で演じていた。

好きなドラマと現実が「リンク」するという、ドラマ好きとしては嬉しいはずの出来事に、私の心は冷め切っていた。

その複雑な思いは、オリンピック開会式の前日に、NHK総合で『いだてん』総集編が再放送されたこととも地続きにあった。

再放送を伝える、NHKドラマの公式Twitterの煽り文句に、強い違和感を覚えたのだ。

『いだてん』は、そんな無邪気に「オリンピック万歳!」をするためだけのドラマではなかったはずだ。

『いだてん』では、オリンピックに紐付いたナショナリズムや人種差別、スポーツ・体育が孕んできた軍国主義や精神論の危うさ、女子スポーツを取り巻く女性差別など、今日にも接続する負の側面も映し出されていた。

放送開始前にわずかに不安に思っていたような、単純な「プロパガンダ」的な作品にはなっていなかったはずだ。

しかし、実際には『いだてん』とはどんなドラマだったのだろうか。今改めて見たときに、どんな意味を持つドラマだったのだろうか。

ドラマで描かれていた負の側面を全てコンプリートしたかのような東京オリンピック・パラリンピックに、そのドラマが絡め取られていく様を見ながら、私は考えずにいられなかった。

『いだてん』では、オリンピックが戦争やその時々の政治など、時代の抗い難い大きなうねりに翻弄されてきた歴史を描いていた。

2020年の東京オリンピック・パラリンピックにとって、最も大きな「うねり」は、COVID-19の世界的パンデミックだろう。

政治的判断によって一年の延期となった東京オリンピック・パラリンピックは、結局パンデミックの収束が見通せない中、人々の反対や危惧を押し切って開催を強行された。

これまでオリンピック・パラリンピックは、時代の「不可抗力」に翻弄されてきたと語られることが多かったが、その時代に生きた人々にとって、オリンピックも大きな「不可抗力」の一つだったのではないだろうか。

「復興五輪」を掲げながら、復興に費やされるべき予算や人手はオリンピック・パラリンピックに流れた。

設計変更などで紆余曲折を経た国立競技場の建設現場では、20代の男性が過労自殺をした。

大会期間中には、ホームレスの人々が公共の場から排除された。

祝日の移動や道路規制など、日本に暮らす人々の生活は、オリンピック・パラリンピックのために、大きく形を変えることを強いられた。

COVID-19対策に注力すべきときに、オリンピック・パラリンピック開催があることによって、さまざまな矛盾や問題が生まれた。

いずれも、「オリンピック・パラリンピック」という「強大な力」によるものだ。

『いだてん』では、IOC会長・ラトゥールの来日直前に二・二六事件が発生し、1940年オリンピックの招致を目指す招致委員会が混乱する様子が描かれる。

嘉納治五郎(以下、嘉納)「ラトゥールが来るんだぞ! ベルギーから! 東京でオリンピックを開催できるか否か、IOC会長自ら品定めに来るんだぞ」

田畑政次(以下、田畑)「(新聞を叩きつけ)知ってますよ新聞読んでますから!」

牛塚虎太郎「(読む)米国シカゴに到着したラトゥール伯曰く『最近の東京事変は、オリンピック招致問題に対しては、何ら影響を与えるものではない』」

嘉納「さすがわが友ラトゥール、分かってる……」

田畑「分かってないよ! あんたら2人ともどうかしてんだよ! 厳戒令ですよ。剣つき鉄砲抱えた兵士がそこらじゅうに突っ立って睨んでやがる。いつ叛乱軍と鎮圧軍で戦が始まるか、民間人が巻き込まれるかも分からない、そんな東京でお祭りですか、こんな時にオリンピックですか!」

嘉納「……頭、どうした」

田畑「やられましたよ叛乱軍に。(包帯を解きながら)治五郎さん、あんた本気で、この日本で今、オリンピックやれると思ってるのか? 俺は無理だと思う。正直。寝てないし怖いし死にたくない。でもやりたい! だからアンタが本気ならついて行く。どうなんだよ! やれんのかよ!」

嘉納「やれるとか、やりたいとかじゃないんだよ、やるんだよ! そのためなら、いかなる努力も惜しまん!」

田畑「……」

嘉納「……」

田畑「……よし分かった! やりましょう! 今後一切、後ろ向きな発言はしません、皆さんもね! オリンピックはやるんです、東京で!」(※)

開催地の状況を一顧だにしないIOC会長、「何がなんでもやる」と言って押し切る国内の権力者たち、2021年に改めて触れると、どこかで見聞きした言動に溢れている。

もちろん1936年と2021年では、異なる部分も多いが、「オリンピック」を前にしたときに、末端の人々が蔑ろにされる点では共通している。

1964年の東京オリンピックも、高度経済成長期という時代背景もあったが、「オリンピック」のためにさまざまな点で、急速に変化が起きた。それは、日本に発展をもたらした一方で、大きな影も落とした。

『いだてん』総集編とともに再放送された『映像の世紀プレミアム』「東京 夢と幻想の1964年」では、東京を中心に突貫工事で高速道路や競技会場などが作られていく中で、多くの労働災害が起きたものの、その被害者たちが充分な補償が得られずにいた姿が取り上げられていた。

「オリンピックを開催する側、参加する側」からの目線を中心に描かれた『いだてん』において、オリンピックが有無を言わせずに社会や生活を変えてしまうほどの大きな力を持っているという側面は、どれだけ掬い上げられていただろうか。

『いだてん』では、オリンピックを翻弄する存在とされている「政治」に、オリンピックも組み込まれてきた歴史、両者が不可分な関係であることも描かれてきた。

一方で、政争に揉まれ、1964年を前にオリンピック組織委員会から追われた田畑政次の姿は描かれたが、オリンピック開催に翻弄された市井の人々はあまり見えてこなかった。

その後、1940年の東京オリンピック開催は決まったものの、日中戦争は激化し、軍部の力もそれまで以上に増す。予算も乏しく、競技場の整備もままならない状況で、オリンピック開催には暗雲が立ち込める。

国際社会の視線も厳しくなる中、IOC総会に向かう嘉納治五郎に、田畑政次は開催返上を求めて次のように啖呵を切る。

田畑「今の日本は、あなたが世界に見せたい日本ですか?」(※)

この台詞は、2020年の東京オリンピック・パラリンピックとその周辺の惨状に重ね合わせずにはいられなくて、非常に印象的だった。

『いだてん』の放送が終わった後でも、私自身この台詞はことあるごとに思い出したし、多くの人々が度々引用していた。

それと同時に、この台詞の捉え方や扱い方についても考えていた。

東京オリンピック・パラリンピックに関係して、何か問題が起きて、それを指摘するとき、「これは海外では許されない」といった言葉が使われているのを度々見かけた(例えば、森喜朗の女性差別発言)。

しかし、それらの問題は、世界で見たらどうだとか、今の時代ではどうだとかいう話ではなく、いつどんな場所でも問題にされるべきものであるはずだ。

元の台詞は、海外での基準と照らし合わせてどうかという話より、「今の日本」が「世界」に胸を張って示せる状態か否かという問いかけだったと思う。

しかし、前述したような文脈の中で、この台詞が引用されていることも少なくなかった。

既存の尺度や価値観に乗っかるだけではなく、差別や搾取などの「問題」にいかに向き合うべきかを、一つひとつ考えながら、何が問題なのかを明確にしていく姿勢が必要だろう。

その過程を丁寧に踏まえていかない限り、表面的な「解決」だけがなされ、本質的な問題解決には繋がっていかない。

『いだてん』の前半、金栗四三と三島弥彦がたった二人で、異国の地・ストックホルムで、日本から初めてオリンピックに出場する姿が描かれる。

終盤の1964年の東京オリンピックでは、コンゴ共和国から参加した二人の選手が、金栗と三島に重ね合わせられるように描かれる。

今回の東京オリンピックにも、そういった少人数で出場したチームがあっただろう。

今大会は、はたして海外から訪れた選手たちが、ベストのパフォーマンスを発揮できるような大会だったのだろうか。

「競技スポーツ」において、練習環境や指導者陣、練習にかけられる予算など、完全な「フェア」は存在しないが、どれだけ「フェア」であろうとする大会だったのだろうか。

COVID-19の感染が広がる中、さまざまな制限を余儀なくされたオリンピックで、国別メダルランキングや日本人アスリートのメダル獲得が、嬉々として報じられるたびに、選手の実力や努力は否定しないけれど、複雑な気持ちを抱いていた。

『いだてん』を見て、2020年の東京大会を含む近代オリンピックが抱える欺瞞と矛盾を改めて大きな問題として捉え直すことになったのも、「オリンピック・パラリンピック」に少なからず胸が躍ったのも、どちらも私の中で起きた事実だ。

ドラマも、社会も、人々の心情や考えも、正負や白黒ではっきりと割り切れるものばかりではない。

だからこそ、『いだてん』が描いたものと描かなかったもの(描けなかったもの)、どちらにも目を向けていく必要があるだろう。

2021年、東京オリンピックを経たからこそ、『いだてん』を通して見えてくるものがある。

『いだてん』は大団円で終わるが、現実は1964年から今に続き、2021年からもその先へ続いていく。

私たちは、「終わり良ければ全て良し」とはいかない現実を生きていかなければならないのだ。

※宮藤官九郎『NHK大河ドラマ「いだてん」完全シナリオ集 第2部』(文藝春秋、2019年刊)より引用

執筆=おなか

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