カルチャーと「非モテ」に引き裂かれる…20代男性が見つけた「答え」

Unsplashより

現在28歳で独身のシス・ヘテロ男性であり、これまでに一度も性交渉の経験が無い私は、恐らく世間が言うところの「非モテ男性」に属する。

敢えて明確に書くが、私は異性に対する性的欲求を抱いていて、恐らくそれ以上に恋愛に対する漠然とした憧れを感じてきた。そして10代の中頃から、自分がモテないという現実に悩み、鬱屈し、時には自分の人生に絶望するという「非モテ」に悩む日々が始まった。

ある程度年月が経ち、考え方に様々な変化が訪れた今でも、交際経験が更新されることはなく、気にしないように心がけようと思っていても「非モテ」に苦しめられる瞬間は存在する。

そしてそれは恐らく自分だけではない。特に最近では、「非モテ男性」や「弱者男性」といったワード、そしてそれを支持する動きを目にする機会が増えてきているように感じるし、メディアがこれらのトピックを扱った記事を公開すれば、その内容を巡って大量の意見がSNS上などで溢れかえる。

その背景には、社会構造や制度面など様々な領域におけるジェンダー間の不平等を訴え、是正を求める動きが加速する中で広まっていった”男性には生まれながらにして特権がある”という考えに対するマジョリティ男性側のある種の「戸惑い」や「反発」といった感情があるだろう。

自分の中で「非モテ(≒女性側から必要とされていないという感覚)」に悩んでいるにも関わらず、「特権を持っている(≒女性側よりも優位な立場にある)」という状態にあるというのは、決して居心地の良いものではないからだ。

一方で(あくまで個人的な感覚として)、かといってこのムーブメントに完全に共感するかというと、また微妙なところだったりしている。確かに居心地の悪さは感じているし、これを書いている今も「非モテ」であることに対する漠然とした不安や焦りを抱いている。だが、この感覚を例えばフェミニズムやポリティカル・コレクトネスといった動きへの反動へと変換するのも、それはそれで自分に合っていない、居心地が悪いような感覚に陥ってしまうのだ。

その背景には恐らく、自分がこれまでの人生で熱心に触れてきた「ポップ・カルチャー」が影響しているのかもしれない。何気なく触れてきた音楽や映画や様々な娯楽が、「非モテ」と同様に自分のアイデンティティの一部となっており、これもまた、簡単に剥がれることは無い。

現在の私を形造った、「アイデンティティ政治」の台頭

私の「考え方の変化」に大きな影響を与えたのは、2000年代後半から2010年代前半における欧米を中心としたポップ・シーンでの「アイデンティティ政治」の台頭である。

その象徴的な存在と言えばやはりレディー・ガガだろう。2011年に彼女が発表した「Born This Way」は現代に至るまであらゆるマイノリティにとってのテーマソングのような存在として燦然と輝いている。米国における国民的なイベントである2017年のスーパーボウルハーフタイムショーで同楽曲が次の歌詞も含めて披露されたのは、この「アイデンティティ政治」が根付いたことを象徴する瞬間だったと言えるだろう。

当時10代後半だった私は、それまでジェンダーや人種について深く考えたことが無く、日本のバラエティ番組などで得た、マジョリティ側にとって都合が良いであろう偏った知識しか持っていなかった。だからこそ当時のレディー・ガガの提示したメッセージは自分にとって新鮮かつハッとさせられるものであり、また、世界中を熱狂させ、同時に大量のバックラッシュを巻き起こす彼女の活動には、明らかにそれまでのポップ・カルチャーにはなかった大きな動きを感じ取ることが出来た。

そのような動きに関心を抱き、欧米を中心としたポップ・カルチャーを追いかけていった結果、そこに込められたメッセージがリアルタイムで自分自身の考え方に影響を及ぼしていったのである。そして、その中には当然「フェミニズム」が含まれる。

2013年、ビヨンセは「***Flawless」という楽曲において、「男も女もみんなフェミニストでなきゃ(原題 : We Should All Be Feminists)」などで知られる作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ氏のスピーチ音声を引用し、大々的なフェミニズム宣言を行った。当時のライブパフォーマンスにおいて、彼女はスクリーンに同楽曲でも引用した次の言葉を大々的に映し出している。

「フェミニストとは : 性別間における社会的、政治的、経済的平等を信じる人のことである。」

勿論、それ以前よりフェミニズムに通ずる楽曲は多く存在していたが、当時のポップ・カルチャーの頂点に君臨していた彼女が、当時蔓延していた「Jay-Zを支える妻」や「セクシーなダンスで男性からの性的消費を誘発している」というイメージを正面から破壊したこの行動はシーン全体に絶大なインパクトを与えた。

当時の私も、これらの動きを経て、それまで女性に対して抱いていた先入観やイメージ、そして「フェミニズム」という言葉に対する感覚が変化していくことを強く実感していた。例えば、男友達同士での会話の内容に違和感を感じるようになったり、それまで無邪気に楽しんでいたものに対して「果たしてこれで良いのだろうか」という疑問を抱くようになっていったのである。また、自分自身が「男性である」という特権を有していることにもより自覚的になり、それに対して複雑な感覚を抱くようにもなっていった。

並行して、SNSなどのソーシャル・メディアが普及したことで、これまで無視されてきた怒りの声が可視化され、多く目にするようになったことも大きな出来事だったと言えるだろう。10代後半から20代という多感な時期において、そういった変化を敏感に感じながら、時にはアウトプットをしながら生きてきた結果、今、こうやって依頼を頂いてテキストを書いているのだと感じている。

さて、本来はこれで終われば良いのだろうが、本稿のテーマはそこではない。ここからは、そういった変化を感じながら生きていてもなお“気にしないように心がけようと思っていても「非モテ」に苦しめられる瞬間が存在する”という自分自身と向き合っていく。

様々な要素が絡み合う「非モテ」の悩みの実態

「非モテ」と一言で括ると「あぁ、モテたいってことですね」と短絡的に片付けられるかもしれないが、それに悩む男性が“実際に”苦しんでいる部分は様々であり、かつそれぞれの要素が複雑に絡み合っている。

上記はあくまで筆者自身がこれまでに抱いてきた感情や、同じく「非モテ」を自称する友人のエピソードなどから参照した内容の一部であり、特に男性学における議論などを参照したわけではないことに注意して頂きたい(今回は、なるべく個人的な内容として書いておきたいからである)。

恐らく「どれも当てはまらないが辛い」という人も珍しくないだろう。また、重要なのは、これらの苦しみには「きっかけ」となる被害経験があるという場合も珍しくなく、それこそが問題の本質であるというケースもあるということだ。

「ぼくらの非モテ研究会」を主催する西井開氏は、「非モテ」のきっかけとなる被害経験にはいじめやパワハラ、家庭内暴力など、当事者によって様々な出来事が存在し得ると指摘し、単に「モテないから苦しい」という考えを問題の本質とすることを避け、より本質的な苦しみを紐解くべく「非モテ」を次のように位置付けている。

だが、いずれの場合も悩みの方向はあくまで自分自身に向くことになり、相手側=女性側の視点は欠けることになる。そしてこれらの悩みは、様々な外的要因によってより重いものへと変わっていくことが多い。

親族や職場の上司など様々な人物から「いい人はいないのか、いつになったら結婚するんだ」というメッセージを頻繁に浴び、街を歩けば容易にマッチングアプリの広告や「婚活」といった文字が目に入る。

インターネットを開けば恋愛絡みの情報や投稿、芸能人の結婚のニュースやそれを祝うコメントが大量に入ってくるし、そして「恋愛」に幸福を見出す娯楽作品は今もなお跡を絶たず、その中にはモテないことに悩んでいた主人公が、魅力的な異性のパートナーと出会い、人生が逆転していくという筋書きの作品も多い。

恐らく、完全に外部との交流を絶って自室に引きこもらなければこれらの外的要因によるプレッシャーから逃れるのは不可能だろう。そうして更に悩みの方向は自分自身を向くようになっていく。

やがて「非モテ」による自分自身に対する「悩み」が、自己防衛本能が働くなどで「怒り」へと変換された場合、事態はより悪化していく。先ほど挙げた感情を持っていたような人であれば、以下のような気持ちを持つようになるかもしれない。

念の為に書いておくが、「非モテ」に悩む人々の全員がこれらの感情を抱いているわけではない。とはいえ、このような感情自体は決して珍しいものではなく、私自身も上記のような感情を抱いてしまうことがある(私は2010年頃からtwitterを続けているが、その中には恐らくそういった感情が表れてしまっているツイートが存在するはずだ)。

そして、これもまたSNSなどのソーシャル・メディアが普及したことにより可視化され、例えばインセル思想などのようにコミュニティという規模で支持されるようになり、時には極めて偏った思考へと向かっていくことがある。

こうなってくると、もはや「フェミニズム」を敵視するケースへと発展していくことも珍しくない。彼らの中で「我々は女性に差別されている」という結論に辿り着いてしまったためである。そして、「非モテ」に悩んでいる私自身がその方向へと向かっていくという危険性もゼロではないのだ。

(少なくとも今の)自分がそうなっていないのは、冒頭で述べたようにかつてポップ・カルチャーを通して、疎外感を感じていたとしても自らを肯定して良いのだというメッセージや、人々は平等であるべきという言葉に共感を抱き、力をもらうという経験があったからだ。

だが、それは理想の世界と、生きづらさを抱えている現実の狭間で板挟みになっているという意味でもある。「女性の立場になって考えよう」などと言っておきながら、恋愛=女性に救済があると信じて / 信じさせられて、そこに依存している。

もしも更に年齢を重ね、より大きなプレッシャーを感じて耐えられなくなった時には、もしかしたら一線を超えてしまうかもしれない。そして、そういった人々の存在は決して珍しいものではないのではないかとも感じている。

だからこそ、まずはその生きづらさの要因を一つずつ丁寧に解体し、「非モテ」という言葉で覆ってしまった問題の本質を見つけに行く必要があるのではないだろうか。そして、やはりそのヒントもポップ・カルチャーの中に見出すことが出来るかもしれない。

「規範」を解体するポップカルチャー

「アイデンティティ政治」が定着した以降の現代では、これまでの長い歴史で築かれてきた様々な「規範」を解体していく傾向があるように感じられる。

例えば、2010年代後半にリル・ピープなどのラッパーが牽引した「エモ・ラップ」というムーブメントでは、多くの男性ラッパーが恋愛における弱々しい感情や、孤独、そして時には自殺願望を抱いてしまうこともあるといった生きづらさを率直に歌い上げたことで多くの人々の支持を集め、今なおマッチョイズムと結びつきの強いヒップホップ・カルチャーの中で「弱音を吐く男性」の姿を肯定した。

また、2000年代当時は「男らしくない」といった批判を受けていたリンキン・パークやマイ・ケミカル・ロマンスといった孤独や疎外感を歌っていたロックバンドが、彼らに影響を受けた後進のアーティストや、当時、彼らの音楽を聴いて救われたと語るファン(筆者もその一人だ)の手によって正当な評価を受けつつある。以前はためらわれる行為だった「男性が生きづらさを語るということ」自体が自然なものとして受け入れられつつあるのだ。

また、フェミニズム的な潮流がもたらした成果として、必ずしも結婚を人生のゴールであると捉えない、一人で生きるという選択を肯定する作品も近年では強く支持されるようになってきている(例. 映画『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』)。

日本国内においても、恋愛など一切気にせず元気でポジティブなオタク生活を過ごす日々を描いたエッセイ漫画「裸一貫! つづ井さん」(つづ井)や、理想的な孤独死へ向けて邁進する30代独身女性の姿を描いた漫画「ひとりでしにたい」(カレー沢薫/ドネリー美咲)といった作品が人気を博しており、そういった変化が起きているということは、少なからずシスヘテロ男性である自分にとっても「結婚」に対する比重の重さを軽減する効果があるように感じられるのだ。

そういった一つひとつの「規範」の解体が進むほどに、「非モテ」に悩む自分自身が少しずつ楽になっていくことを実感する。そうしていくことで、「非モテ」という言葉の影に隠れてしまっている「本当の問題」がよりクリアに見えてくるのではないだろうか。そうすれば、自分なりの社会との折り合いを付け方を見つけ、板挟みのような感覚を抱かずに力強く理想へ向けての歩みを進めていくことが出来るのではないだろうか。

これはあくまで単なる私個人が抱いている希望的観測にすぎないし、他の「非モテ」に悩む人々にとってのヒントには恐らくならないだろう。だが、あくまで自分自身を救済するために、今はそのように生きてみようと考えている。だからこそ、私自身もまた、ポップ・カルチャーから受けた力を元にしながら、自らを縛っている「規範」を解体する一人とならなければならないのだ。

執筆=ノイ村

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