女は「不完全で悲しい存在」か? 押し付けられた”視線”を拒絶する『ブラック・ウィドウ』

Unsplashより

※この記事は映画『ブラック・ウィドウ』(2021)のネタバレを含みます。

映画『ブラック・ウィドウ』(2021)の作中、ナターシャ(スカーレット・ヨハンソン)に再会したエレーナ(フローレンス・ピュー)は「あんたは雑誌のカバーに載ったりして…」と声をかける。

マーベル・コミックスに登場するキャラクター「ブラック・ウィドウ」はロシアのスパイからアベンジャーズのメンバーに転身したスーパーヒーローであり、映画ではアメリカの男性誌において「最もセクシーな女性」に二度も選ばれたスカーレット・ヨハンソンが演じている。

しかし初めてその名を冠した主演映画で明かされたのは、「ブラック・ウィドウ」とはポーズを決めて「女の子の憧れ」となったナターシャ・ロマノフのことではなく、個々の名を奪われ洗脳され、資源として利用されている女性たちの名称である、ということだった。

しかもエレーナによれば「あんた(ナターシャ)が抜けてから余計に組織の締め付けがきつくなった」。

こうした設定の数々の、なんと現実を写し取っていることか。クライマックスで炎の中に一人残ったナターシャが取り戻すのは、消し去られた「女の顔」である。

あいつを殺すの、楽しそうじゃない? うちらを支配してきたドレイコフ(レイ・ウィンストン)を……と合意したナターシャとエレーナは雪山の刑務所へとおんぼろヘリコプターを飛ばす。

そこには過去の栄光と腕力の自慢に明け暮れるかつての「父親」が……って情報を得るためとはいえ何でこんな馬鹿な奴を救うんだ?と見ていたら、この父親アレクセイ(デヴィッド・ハーバー)は引き上げられるやいなや自身もヘッドセットを装着して二人の会話に意気揚々と割り込み、子どもの頃の自分を大事にしてくれなかったという思いを一発の平手に込めたエレーナに言うのだった、「何でそんなに荒っぽいんだ? time of the month(月のものか)?」。

生理のある者にとっては実に「あるある」である。

エレーナが「生理なんてない、子宮を摘出されてるから」と返すと、アレクセイは「生々しい話はやめてくれ」と座り込んでしまう。

彼は「お前は『女』だもんな」と言いたかっただけで、「何言ってるの」といったような会話を打ち切る軽い答えを想定していたのであろう……あるいは何も考えていなかったのであろう。

そんな甘えを許さず生理の話には生理の話で返すエレーナの態度は、それこそ同時期に封切られた『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)のキャシー(キャリー・マリガン)が真顔でぶつける「What are you doing?」に通じるものがある。

確認するぞ、お前は生理について話してるんだな?というわけだ。

「ブラック・ウィドウ」が子宮を奪われていることは、『アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン』(2015)で既に語られている。

ナターシャはワンダ(エリザベス・オルセン)の術により最大の恐怖として自身の受けた摘出手術(と「口のない少女達」)を脳裏に見、ブルース(マーク・ラファロ)にそのことを話す。

これには「私達は互いにモンスターなのだ」と訴えて彼を癒す目的もあった。相手がその憐憫を受け取らないという流れが巧妙だが、この件には多くのフィクションでお馴染みの「不完全ゆえに悲しみのうちにある女」を消費する視線が透けて見える。

それに対して『ブラック・ウィドウ』のエレーナの上記のセリフ(続けていわく「まだ卵管を引っこ抜く話が残ってるのに」)はどうだ。

監督ケイト・ショートランドや役者ピューの、「私の体に起こったことは私以外には消費させない」という心意気を感じるじゃないか。

田中ひかるの著書『月経と犯罪』(2020)には、1940年代半ばに東京女子医科大学創設者の吉岡彌生が生理休暇の規定に反対したことについて「月経時の女性の心身は異常である」という考え方が広まるのを懸念したためではないかと書かれていたが、女はいまだこの、少しでもましな方の決め付けを選ぶしかないという状況の下にある。

マイノリティは常にマジョリティの都合による二極の概念によって抑圧され、操作されている。

女にとっての性行為は時に「(命がけで拒否するべき)大ごと」、時に「(減るもんじゃない)些細なこと」とされ、状況によってどちらかが採用され尊厳が踏み潰される。

女は自分がどういう存在なのかを決め、そこから逸れないことを要求される。ある日誰かとセックスしたら、いつでも誰とでもするよな?と言われる。全てはその時々に当事者が決めることなのに。

学生時代、マンションのエレベーターホールに貼られた掲示物が若い女性の微笑で占められていることに気付き、社会は私向けに出来てはいないと初めて認識したものだが、女は街中のポスターから映画まで主にヘテロの男性向けに作られたものを否応なしに取りこんで育つことで自分と違う視点がある世界に慣れる。

そうした機会に恵まれない男性は男目線ではない生身の女の意思表示に遭遇すると動揺し、時に忌憚、撲滅しようとするのだろう。

当事者がSNSから創作物まで手を尽くして適切に語り、文脈や個人による差異についての認識を広めることが大切だ。

反感を買ってもいい、一人でも耳を傾けてくれるかもしれない、それによって昔の私のような女性が同じことを考える仲間の存在に元気付けられるかもしれない、何もしないよりずっといい。

グロリア・スタイネムがエッセイ『もし男に月経があったら』において「男に月経が来るようになったら血の量を自慢するだろう」などと書いてから40年、いまだ生理の話題が社会の表面に現れてこないため、同様の内容をジョークにするコメディアンも出てきた。

それはミシェル・ウルフの2019年のスタンダップコメディに見られる。

アリ・ウォンは生理中のセックスの鉄板ネタを持っているし、エイミー・シューマーもナプキンの古臭さを笑いにしている(彼女達が全員ミレニアル世代なのは偶然なのだろうか、それとも私の観測範囲の偏りゆえだろうか)。

男性であるケヴィン・ハートも親の立場で、娘をいわばダシにして生理の話で笑いを取ろうとしている。

私にとって笑えるものもそうでないものもあるけれど、ジョークが溢れて「この生理ネタは好き」「あれはいまいち」と言えるようになればいい。

日本語においては、ウェブ上には当事者による生理の話題がプロの書き手から素人のものまで近年随分増えてきた印象を受けるが、それ以外の場ではそうでもない。

そもそも「女のお笑いは面白くない」といった旧弊な見解もある。

その理由は、日本の男性の多くはセックスを「楽しい」ものと捉えていないので、性的だと感じる(性的魅力が「ある」「ない」いずれとジャッジした場合でも)存在が同時に面白いという感覚を持ち辛いからではないだろうか。

学生時分に「女の人はしたくもないのになぜセックスをするのか」と言われたことがあるが、拒否や羞恥を示す女性の性的表象に囲まれて育つ日本の男性の多くにとってセックスとはどこか後ろめたい……後ろめたさがなければ完遂し得ない行為なのかもしれない。

また、セックスを「奪う」ことと捉えている男性にとっては「奪われるもの」を持つ者である女は「悲しい」存在であり、憐れみや軽蔑の気持ちを拭い切れず心の底から笑えないのではないか。

実際には、数え切れない程の性被害に遭ってきた私や友達だとて全くもって悲しい存在ではないのであるが。

「ブラック・ウィドウ」のラスト、去ってゆくアレクセイは今後も「月のものか?」なんてことを言う無知で無理解のままだろうか。エレーナとのやりとりで変わったと思いたい。

私達は「見るなら私が表現する私を見ろ」と言い続けなければならない。

執筆=yako

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