弱音を吐く情けない男、ブラザーフッド…B’z稲葉浩志が伝える“男らしくない”メッセージ
B’zのファンでなく『ultra soul』や『イチブトゼンブ』などのヒット曲数曲しか知らないという人には、B’zは“陽”なイケイケなバンド、あるいは男らしい硬派なバンドだったりするだろうか? しかし実はヴォーカルである稲葉浩志さんの書く歌詞はものすごく陰があって、「男性はかくあるべし」というジェンダー規範から自由だったり、抗っていたりするんだ……
そんなことをツイートしていたらこちらでの執筆の機会を頂いた。筆者は日本社会にある女性への抑圧や男女格差に耐えかねて、数年前から海外に渡って奮闘中のB’zファンだ。稲葉さんの歌詞がいかに“マッチョ”でないかを、「歌の主人公の弱気さネガティブさ」「ジャッジメンタルでなく多様性を尊ぶ姿勢」「生活に根ざし感情を大切にする視点」の三つの観点から話そうと思う。
最初にお断りしておきたいのだが私にとってB’zはアルバムを何枚も持っていて好きなバンドではあるけど、ライブには一回しか行ったことがないしファンクラブにも入っていない。88年のデビュー以来発表されたB’zの約350曲すべて(※1)、それに加えて稲葉さんのソロ曲、ユニット曲全ての把握はできていない。
なので、あくまでも広大な稲葉ワールドの極一部を語るということになり、長年の熱烈なファンからしたら「違うぞ」と思う部分もあるかもしれないがご容赦いただきたい。
弱気でカッコ悪い姿をさらす歌の主人公
まず稲葉さんの書く歌詞がジェンダー規範から自由なポイントとして真っ先にあげたいのは、歌の主人公が、ネガティブだったり情けなかったり、弱音を吐いたりするカッコ悪い姿をさらしまくることである。これはB’zファンにはある程度広く共有されている事実であろう。例を数曲上げたい。
“イヤイヤイヤ…
予想通りあの娘は逃げちゃった いっさいがっさい持ってかれました
やはり現実は渋い
わかってる、わかってるって、ハヤかったり、ヘタクソだったり
やたら気がきかなかったり、 そりゃ他に男もできるわ” (97年『Deep kiss』より)“夜明けまで続きそうな おしゃべりに 頭が割れそうで
僕を見ようとしない きみに声をかけるスキはない
相手の流れに 押されてる 僕の命は風前の灯尻にしかれっぱなし 座ぶとんのような心と体よ
この形勢を逆転したいと からまわりして びんぼうゆすり” (97年『Fire ball』より)
内容も、“いっさいがっさい”や“座ぶとんのような心と体よ”というワードチョイスもダサいな?と思った人が多いのではないだろうか。
しかも『Fire ball』は資生堂のコマーシャルソングである。コマーシャルには使われていない部分とは言え大手化粧品ブランドのCMソングにこういうテーマと歌詞を持ってこられる飾らなさと自由さに脱帽である。
この特徴は近年も健在だ。
2015年発売のシングル曲『有頂天』は、タイトルから、ご機嫌だぜイェーイなアゲアゲ曲か、あるいは君とつきあえて僕は有頂天だ!という内容かと思わせておいて、精神的にギリギリだから
“今夜だけでもお願い 有頂天にならせて
君といる時くらいは 勇気に満たされたい”
という切羽詰まった弱さあふれる曲だった。
また、2017年発売のアルバム『Dinosaur』収録のその名も『弱い男』は、自分は“弱い”、“柔い”と連呼する曲なのだが、稲葉さんの書く歌詞の主人公に内省的な男性が多いことを十分知っていたにも関わらず、初めて聞いたときネガティブな内容をストレートに力強く歌い上げるギャップに衝撃を受けた。「自分の弱さを認められて隠さない人って強いよな……」と思わざるを得なかった。ぜひ多くの人に聞いてみてほしい曲だ。
よく「男はプライドの生き物」などと言われる。これは女性にプライドがないわけではないという点で首をかしげたくなるのだが、男は人に弱みを見せてはいけない、女性より優れていなければいけないというような価値観があり、それを内面化している人が多いのは事実だと思う。
稲葉さんの書く歌詞の主人公の本音のさらけだしっぷりはそういう価値観を微塵も感じさせなくてすごいと思う。また、前述の『Deep kiss』もそうだが性的に相手を満足させられない・させられていない、手を抜いたセックスをしていると内省しているような曲も多い(『Long time no see』(2009)、『NO EXCUSE』(2015)等)。攻めているなと思う。
そして、ネガティブさを前半でぶちまける稲葉さんの曲の多くが、最後は自己肯定したり希望をもって終わるという特徴もある。上記の『Deep kiss』と『Fire ball』は曲冒頭部分を引用したのだがまさにそのパターンだ。
「女性が男性のケアをするものだから男性は自分の世話ができなくてもいい」というジェンダー規範によって、セルフケアが苦手で女性のケアを求めるようになる男性は多いと思うが、これは究極のセルフケアと言ってもいいのかもしれない。
男性同士のケアや寛容さを呼びかける楽曲たち
そして単に弱音を吐く姿を見せるのみならず、他の男性に「それやっていいんだよ」と直接的に呼びかけている曲が、その名も『Brotherhood』(99年)だ。私はこれを、「トキシックマスキュリニティ(有害な男らしさ)規範を抜け出して男性同士でケアしよう、人と比べるのをやめよう、生き延びよう」という曲だと思っている。
朝帰りで疲れはてて帰ってきた後、今日あったいいニュースや最悪なニュースを思い浮かべて寝つけない、という日常に根ざした内省的な出だしの後、サビで稲葉さんはBrother、と呼びかける。
“Brother 生きていくだけだよ
ためらうことなど何もないよ 今更
どうか教えてほしいんだ
苦しい時は苦しいって 言ってくれていいんだよ
Baby, we’ll be alright, we’ll be alright”
女性間では仲良い女友達に「話聞いて」と連絡して愚痴を聞きあいケアする文化がある一方で、男性は男性ジェンダー規範によって相談したり助けを求めることが苦手な男性が多いと言われている。男女の自殺率に大きな差があることとの関連性も専門家から示唆されている。
私はこの曲で繰り返される「生きていくだけだよ」「Baby, we’ll be alright, we’ll be alright”」(僕たちは大丈夫になる、きっとなんとかなる、というニュアンスだろうか)からそういうことを考えずにはいられない。
次に、稲葉さんの書く歌詞によく見られるマッチョでないメッセージとしてあげたいのが、人・人生はそれぞれ違うこと、他人の評価を気にせず自分の道を生きよう、というものである。私はここに安易なジャッジを避けいろんな立場の人を思いやれる多面的な視点と思慮深さを感じる。
石原慎太郎や麻生太郎の暴言が「○○節」ともてはやされる文化や、「安定した職について○○歳までに結婚して子供産んで貯金して、そんな人以外救う必要ない、そうできてないなら本人がいけないんでしょう」、という弱者切り捨ての自己責任論と対極の姿勢だ。
前述の『brotherhood』の2番では“うまくいってるかい なかなか大変だよな 全く”と旧友に話しかけるていで、今度はこう歌う。
“同じ道をゆくわけじゃない
それぞれの前に それぞれの道しかないんだ”
そしてこうも歌う。
“走れなきゃ 歩けばいいんだよ
道は違っても ひとりきりじゃないんだ”
私はこの、道は違う、走れなきゃ歩けばいいというのは、人生はそれぞれ違う、自分のペースでただ自分の人生を生きればいい、という意味だと解釈している。仕事や出産など私たちの人生は各年齢ごとに「その年ならこうしてなきゃ」という外圧を受け、同年代の成功者と比較して焦ったり苦しみがちだ。でもそれぞれ違う人生を生きているのだから比べる必要はないのである。
同じような「人それぞれでいい」というメッセージの曲に『黒い青春』(2007年)がある。これは、人に無理やり笑顔を見せる、ノリが悪い、暗い青春を送る若者の歌だ。ここに出てくる
“ケンカの後に抱き合うような
やんちゃな日々には縁がない
痛みを学ぶ時期もプロセスも
人それぞれってこと”、“明るいばかりが若さじゃないんだ 光と影は支えあう”
という歌詞に、大人から投げかけられる「今が一番いい時期だね」という言葉がつらかった、鬱々とした青春を送っていた10代後半の私は大いに励まされたものだった(なお「女はドロドロしてるけど男はさっぱりしてるから殴り合えばわかりあえる」というような価値観もサラッと否定されている)。
稲葉さんのこういうメッセージはソロ曲(作詞作曲を稲葉さんが行う)により直接的に表れるように思う。
『Race』(2004年)では競争社会への疑問を真っ向から唱え、自分を軸に置く価値観を提示する。『Wonderland』(2004年)は異なる違う価値観を持った“君”を哀れみ変えようとしていた自分を恥じる。
女性は無知で劣っているという思い込みから女性に物事を説明したり説教したがる男性は多い。歴史家ソルニットにより『説教したがる男たち』という本が出版され、マンスプレイニングという言葉も広まったが、『Wonderland』にあるのは真逆の価値観だなと思う。
忙しない時代の中で生活の中のリアルを描いてきたB’z
そして最後に、稲葉さんの歌詞のマッチョでない点として、生活に根ざし感情にフォーカスする視点をあげたい。『ultra soul』のような抽象的なテーマの曲もある一方、稲葉さんの作る歌には日々のリアルで繊細な気持ちを落とし込んでいるものもたくさんある。
まず名曲『zero』(92年)の歌詞を見てみてほしい。
“ぎらぎらした街をぬけ さっさと家に帰ろう
思わぬ工事渋滞で 赤いランプを眺めりゃまた考えすぎのムシがじわりじわりと湧いてきて
僕は僕自身に 一日分の言い訳をはじめる”
という写実的な出だしから始まった後こう続く。
“今日はいまいち 思いやりに欠ける日だったとか
人の気も知らないで 「おまえは変わった」なんて
簡単に言うやつの うさん臭い顔だとか
空っぽの冷蔵庫開けて いろいろ思い出してると
都会の暮しは やけに喉が乾いてしまう”
日々の生活ですり減らされている主人公の状況と心のうちがあまりに実感をもって浮かび上がってこないだろうか。
「男は仕事、女は家のこと」という旧来的な性別役割分業の価値観の社会では「24時間働けますか?」というエナジードリンクのキャッチコピー(88~92年)(※2)が示すように、男性は会社に利益をもたらすためにマシンのように働くことだけが求められた。
しかしそんな時代に作られた『zero』の歌詞は忙しい生活の中でも、今日は思いやりにかけていたという自省や他人から言われた無神経な一言が頭から離れないといった、意思でコントロールできない「つい考えてしまう」こと、気持ち・感情に焦点をあて、そういう価値観から遠く離れたところで生まれているように思える。前述の『Brotherhood』の出だしからもそれはうかがえる。
他の例を紹介しよう。恋人に愛想をつかして浮気しようとしている女性の曲と思われる『アクアブルー』(2005)には“何一つ知らないで 正義や大義振りかざす 悲しみ知るべし”というフレーズが登場する。
この、大義よりも目の前のこと、という主旨の言葉は『Super love song』(2007)でも“でっかい理想歌うのもいい でも君が笑ってくれなきゃ どんな夢も足元からぐらつく”と表れる。社会運動やNGOなど大義がある場所で起きたセクハラ等が、大義の前ではたいしたことはない、と矮小化されがちな現実を考えると非常に胸に刺さるものがある。
これらの稲葉さんの歌詞からは日々の生活を大事にし、自分の感情に正直な、地に足の着いているものの見方を感じられる。
“感情”が否定されがちな社会で
稲葉さんの歌詞の特徴を、弱さを出せること、ジャッジメンタルでないこと、生活に根ざし感情を大切にする視点、の三つから紹介してきたが、ここで感情について書いてみたい。
他の国のことは知らないが“和”を重んじる日本社会ではどうも感情は悪とされてきたように思う。男は泣くな、男ならうじうじ文句言うな、などの言葉からもそれはわかるし、その悪しきものは「女性は感情的」と女性の特徴とされた。
「男は○○で女は○○」というステレオタイプ表現を使う人は減ってきたが、今度は何かへの批判や意見や感想に対し「それはお気持ちだ」という表現で無効化を図る向きがネット上で見られ、未だに個々人の感情・気持ちを軽視する風潮は日本に根強いようだ。
しかし我々はロボットではなく感情があるので、弱音や愚痴を吐きたいときもあるし、システマチックに行動できないし、自分の気持ちに蓋をして生き続けられない。そういう現実の軽視が生きづらさを生み、ひいてはうつや高い自殺率のような問題につながっていくのではないだろうか。
そんな風潮の中、稲葉さんのコントロールできない感情の存在を認め個々人を重んじる歌詞は人間の実際の姿に寄り添い、「男なら強くなきゃ」といった「かくあるべし」という枷を外し、聞く人の共感を呼び、癒しを与える。だからこそ昔の曲も飽きられず何十年と聞き続けられ、性別や世代問わず大勢のファンの心をとらえ続けて離さないのかもしれない。
この記事を書きながらそんなことを考えた。B’zに興味のなかった人にも稲葉さんの書く歌詞の世界が少しでも伝わったら幸いだ。
※1ファンサイト『B’z速報』調べ https://bztakkoshi.com/bz-all-works
※2https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3
【参考文献】
#MeToo ハラスメントのない職場へ「男の絆」から生まれるセクハラ
「ホモソーシャル」を知っていますか
http://ictj-report.joho.or.jp/201806/sp07.html
クロ現+“有毒な男らしさ”を考える