「男らしさ」から逃げ出すために。現在の映画が見つめる男性性

ここ最近の映画について、この記事を読んでいる方はどんな印象をお持ちだろうか。ひとつ代表的なものとして挙げられる大きな潮流は、女性同士の連帯を描いた“シスターフッド”映画だろう。しかし同時に、男性について描いた映画でも素晴らしい作品がたくさん登場した。

この言い方だと、男性についての映画なんてこれまで山ほどあったじゃないかと思われるかもしれない。それはたしかにその通りである。今まで男性が主人公で男性が活躍し、男性が華々しく描かれる映画は女性のそれに比べてとても多かった。

しかしここで取り上げたいのは、男性が「男らしく」活躍するさまを映したこれまでの映画とは違う、「男らしさ」それ自体を捉えた映画のことである。「男らしさ」とは、男性が社会で生きるうちに習得していく男性としての振舞いや考え方であり、「男性性」と言い換えてもいいかもしれない。

2020年は、そんな「男らしさ」を掘り下げて見つめようとする映画がたくさんあった。男性が「男らしい」のを当然のこととみなすのではなく、なぜ男性は「男らしく」ふるまうのかを考え、「男らしさ」がもたらす痛みや苦しみを描こうとする映画。この記事では、そんな「男性映画」から3つを紹介したいと思う。

男性同士の対話が男性を救う

まずひとつめは、『幸せへのまわり道』という映画である。この映画は実話をもとにしており、アメリカで長らく子供番組の司会者をしていたフレッド・ロジャースと、彼を取材するジャーナリストのロイドとの交流を描いている。

ロイドはジャーナリストとしては優秀なのだが、亡くなった母親をめぐって父親と不仲の状態にあり、姉の結婚式で久しぶりに再会した父を殴ってしまう。しかし、ロイドは自身の中にあるそういった悩みやトラウマを妻に対しても打ち明けることができない。

これらの描写及び映画全体から、「男性というのは自分の感情をあらわにせず、ひとりで我慢するものだ」という考え方をロイドが内面化していることが読み取れる。さらに、そういった「男らしい」振る舞いは本人だけでなく周囲の人間も傷つけてしまうものであることも描かれている。

そんなロイドがある日依頼を受けてフレッドのもとへ取材に行くと、フレッドはロイドの内面にある問題を敏感に感じ取り、彼に話を聞こうとする。そうして取材を続けるにつれて話を聞く側と話す側の立場が逆転していき、徐々にロイドは心を打ち明けていく。

ロイドも最初は自らの感情や思いについて話すことをためらっていたが、最後にはそれまで向き合うことのできなかった感情を見つめられるようになる。自己の内面を言語化することで、ロイドは心の中で凝り固まった感情に折り合いをつけることができたのだ。

さらに、もうひとつこの映画で重要なのは、ロイドの感情をケアするフレッドもまた男性性の問題から無縁ではないということである。ロイドと同じくフレッドもどこにも行き場のない感情が心の内にあり、たとえ「聖人」に見えても多くの男性と同じ問題を抱えている。

しかし — — — ロイドがフレッドにしたように — — — 感情を言葉にして伝えることができれば男性たちの問題は解消できるかもしれないし、少なくとも誰かを傷つけなくて済むのだろう。「男らしさ」の呪縛にとらわれた男性は、自分を守るため、他人を傷つけないために、自身の感情と向き合うのである。

男性たちの新たな関係性を描く

次に挙げたいのは『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』という映画である。この作品は、現代のサンフランシスコにおける土地の高級化(ジェントリフィケーション)を背景としながら、ある古い屋敷をめぐる2人の黒人男性とその周囲の人々の物語を描いている。

主人公の2人、ジミーとモントは親友同士でいつも一緒に行動し、お互いを貶しあったりはせず、常に助けあい支えあう関係である。2人は心が通じ合っていてとても親密で、かつ互いへの優しさを隠したり攻撃的に振舞ったりはしない。これまで「普通」とされてきたものとは違う、「友情」と一言で片づけることのできない形で男性同士がつながることができるのだと、ジミーとモントの関係は教えてくれる。

それに対して彼らが住んでいる近所には別の黒人グループがいて、そこにはとてもホモソーシャルな関係性が存在する。ホモソーシャルとは、同性同士の性的な関係や恋愛を含まないつながりのことで、男性同士の場合はしばしばミソジニー(女性嫌悪)とホモフォビア(同性愛嫌悪)を伴う。このグループのメンバーはお互いに対して攻撃的であり、「男らしく」「強さ」を誇示し合う。

主人公の2人はそのグループと距離をとっていたのだが、ある日メンバーの一人であり、かつてジミーの友人でもあったコフィと仲良くなる。接していくにつれて彼がグループの中で振舞っていた様子とは違って、2人と共通するものを多く持ったとても優しい人物であることが分かる。

この作品では最初、典型的なホモソーシャルで戯画的ですらあるグループと、「特殊」とも言える極めて親密な友情で結ばれた2人の男性の関係を対比的に描いている。しかし、そんな対照的な男性たちの間にもたしかに通じ合うものがあり、同情と共感の余地がある。『ラストブラックマン・イン・サンフランシスコ』は、男性同士による「男らしさ」を介さない新たな連帯の可能性に満ちている。

暴力の連鎖に打ち勝つには

3つ目は『行き止まりの世界に生まれて』という映画について話したい。この映画は、イリノイ州のロックフォードという町に暮らす、スケートボードが趣味という共通点を持った3人の青年がもがきながら生活していく日々を映したドキュメンタリー映画である。

さらに主人公である3人にはもうひとつ、子どもの頃に父親(継父)から家庭内暴力を受けていたという共通点があり、これが彼らをめぐる「男らしさ」の規範とそれに結びついた暴力の連鎖の原因となっている。

白人で労働者の父を持つザックは同じくロックフォードの出身であるニーナと結婚するが、若くして子供を持った2人の結婚生活はうまくいかず、2人は別居することとなる。黒人のキアーは父親から暴力を受けた経験などから「言うことを聞かなかったんだから殴られて当然だ」という家庭内暴力の「理屈」を内面化していて、自らのトラウマに向き合うことができずにいた。

また、この映画の監督であり主人公の一人であるアジア系アメリカ人のビンも、母親の再婚相手である継父から暴力を受けた過去があった。ビンが自身を含む多くの人間を苦しめる家庭内暴力の問題を画面に映し続けるなか、周囲の人間に話を聞いていくと、どうやらザックがニーナに暴力をふるっていたらしいことがわかる。

終盤、ビンにこのドキュメンタリーの意味を聞かれたキアーは「セラピー」だと答える。この言葉こそがこの映画で行われていること、そして映画自体の持つ力を表していると思う。ビンは、当事者であるザック、キアー、ニーナ、そして自分自身の語りにあくまで耳を澄ます。ザックは自分がなぜ暴力をふるうに至ったのかを言葉にし、キアーは自分が殴られた過去をどう思い出すかを語る。

『行き止まりの世界に生まれて』では、そういった行為こそが男性にとって「セラピー」であり、「男らしさ」と結びついた暴力の連鎖に打ち勝ち、トラウマを治癒しうるものとして描かれている。自分の苦しみを自分の言葉で語ること、同じ境遇や立場にいる人の言葉に耳を傾けることで、男性は自らの「男らしさ」から少しずつ解放されるのかもしれない。

さいごに

以上、ここまで3つの映画を挙げて現在の「男性映画」というテーマで書いた。これらの映画は筆者が去年鑑賞したなかで、それぞれ違った手法と切り口で男性性について描いていておもしろいと感じた映画であるが、これ以外にも「男らしさ」についての優れた映画・ドラマがたくさんあった。『グレース・オブ・ゴッド』『WAVES/ウェイブス』『ハニーボーイ』『ザ・ボーイズ』シーズン2など、挙げていけばきりがない。

これらの映画のように男性が男性であるが故の苦しみを描くことは、女性の差別や抑圧を訴えるフェミニズムに対して「男性だってツラいんだ」というようなバックラッシュとなる危うさもある。しかし、「男らしさ」を映し出す優れた映画はそのような方向へ傾くことを回避し、むしろ女性差別の根源でもあり男性の抑圧の原因でもある家父長制的なシステムへの批判として機能する。

これからも、「男らしさ」を見つめることによって男性を抑圧から解放し、性差別的なシステムへのカウンターとなるような映画が数多く作られることを期待する。

執筆=pika
画像=Unsplashより

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