“耐える女”ではない私は、なぜあえて「昭和歌謡」を唄うのか
「昭和歌謡」というテーマで書き連ねる前に断っておく。私は昭和歌謡マニアでもオタクでもレコードコレクターでもない。8年ほど前からギタリスト羽賀和貴(BARAMON,井手健介と母船など)と“duMo(デュモ)”というギターとヴォーカルのユニットで、昭和歌謡曲にアレンジを加えてカヴァーしたり、それ風のオリジナル曲を制作し、ステージで唄ってきただけの人間だ。
私たちのユニットは、YouTubeを見て日本の昭和歌謡曲を好きになった謎のロシア人二人組、という設定でやっており、なので、それぞれ仮装をして、所謂カタコトの日本語でMCをする、というキャラクターを演じている。その意図については後述する。
さて、幼少期から洋モノかぶれの両親の影響で、主にアメリカン・ポップスやR&Bを好んで聴いてた私は、あまり90年代J-Pop旋風に馴染めていなかった。そんな最中、宇多田ヒカル『Automatic』(1998年)の大ヒットによって、彼女の母親である藤圭子、という歌手を知った。
『新宿の女』(1969年)という藤圭子のデビュー曲……18歳になったばかりとは思えない歌唱である……は、男にフラれて酒場で飲んだくれるホステスの心情を唄ったものだ。
説明的でもない、少ない言葉数で失恋の哀しみにズブズブ深く入り込んでいくこの曲は、2021年、一聴だけではなんの共感も得られない内容であろうとは思う。しかし“駄目な男に棄てられた己の愚かさを疎む”『新宿の女』は単純に失恋のことを唄っているだけではないのだと考える。
“傷”を快楽に変容させ、共有する
63年続いたその「昭和」という期間を、第二次世界大戦以前、以後で大きく分けて話を進めたい。私は戦後復興から高度経済成長の終わりかけ、大体1950〜80年代前半の、自分が生まれるあたりまでに作られた日本の小説や映画、音楽に十代の頃から惹かれ続けている。
天皇を神だと信じ込まされ、ボロボロになっていった日本軍は勝利していると思い込まされ、それが1945年8月15日、敗戦の一夜にしてひっくり返った。まさに「この世はもうじき おしまいだ」といった心持ちだろう(野坂昭如『マリリン・モンロー・ノーリターン』(1971年)より)。
こうした時代背景を鑑みると、『新宿の女』からは国民国家の面をしただけの、一部の支配階級のみを向いた“日本”という駄目な国に、体よく使われ、棄てられた民衆の絶望、も裏に読み取れはしないだろうか。
戦争の傷跡がいまだ色濃かった時代を、単に“耐える”だけで生きていたわけではなかろう。どこかでその“耐える”を、「昭和歌謡」つまり大衆音楽は、マゾヒスティックな快楽に変容させ、作家、歌手、そして音楽を楽しむ人々、みなその”傷”を共有していたのではないか。
私は「権力」が大嫌いでロックやパンクに夢中になったが、それはあくまでイギリスやアメリカの歴史の産物であって、日本で流れているリアルタイムのロック風な流行歌には、そのようなメッセージを感じられるものは少なかった。
何故そんなふうに“お気楽”になってしまったのか、と考えると、先人たちの“平和”への血の滲むような想いが裏目にでた結果でもあったのではないかと思う。経済が回復するにつれ、徐々に「反権力」の思想は特権的で堅苦しいものになっていった。
広島で被爆した祖父や祖母の世代は戦争の話をあまりしたがらなかった。「余計なことを知らなくていい、好きなことを自由にやりなさい」と言ってくれていた。申し訳ないが、私はその優しさに、真正面から甘える事は出来ない(真正面で甘えているとも言えるが)。
八代亜紀『雨の慕情』 の複雑さ
昭和歌謡に興味を持ったもう一つのきっかけは、漫画家、高野文子のデビュー単行本『絶対安全剃刀』(1982年)に収録されている『うしろあたま』という短編だ。
女性の肉体を持つことに定まらぬ嫌悪感を持っている主人公が、異性からのシンプルな好意に混乱したとき、「心が忘れた あの人も 膝が重さを 覚えてる」という一節で始まる、八代亜紀の『雨の慕情』(1980年)が流れる。ご存知、阿久悠作詞の大ヒット曲。ラストで一番の歌詞が丸々モノローグとして引用されているのを読んで、なんてクールな表現だろうかと幼い私は非常に感動した。
繰り返すが、先の『新宿の女』と同様、「女性がひたすら苦境に耐える」という内容が昭和歌謡には非常に多い。『雨の慕情』の2番では、帰ってこない恋人を想ってひたすら料理を作り卓上にぎっしり並べるという狂気じみた光景が唄われており、現在、これは色々な意味で目も当てられない描写である。阿久悠という男性が「イイ女」はこのような行動を取るべきだと期待している!と腐すのは簡単であるが、少々待っていただきたい。
八代亜紀といえば『雨の慕情』と『舟唄』(1979年)。『舟唄』もまた阿久悠の作詞で、リリースされた時も近く、この二曲は双子のような関係にある、とも言われている。
八代にとっての初の所謂“男歌”(男性視点で唄われる曲)「お酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な ひとがいい 灯りはぼんやり ともりゃいい」……『雨の慕情』よ、男性はイカでいいと言っている。手料理をそんなに並べるな、引かれるぞ……、ということではなく、ここにあるのは「阿久悠」という男の「美学」であり、なので、はっきり言ってどちらの曲の歌詞も「男性」の視点なのである。これを、あの妖艶な笑みをたたえた八代亜紀が唄うことで立ち現れるものは、歌そのものに性別はないはずなのだ、ということなのである。
それでも観客は“女性が唄っている”のだから“女性の心情である”と錯覚してしまう。ここをうまく利用したのが、『うしろあたま』なのだ。
「私のいい人 つれて来い」をどう読むか
“受けいれる”構造を持つ女性の肉体に嫌悪感を持つ、というのは、思春期の女性にとってそう珍しいことではない(背景には性別違和や、社会のミソジニーへの反発など、様々なものがあるだろう)。そこに、このじっとりとした心情を敢えてぶつけることによって「私のいい人 つれて来い」のリフレインの「私のいい人」が、異性の恋人という具体的な他者ではなく“自分にしっくりくる肉体”を指している、という新たな見方もできるように感じたのだ。見事な音楽の使い方である。
単純に、異性に親切にされたことで主人公の凝った心が少し緩む、という読み方も出来るし、様々な解釈が可能だが、それにしても当時この漫画を読んだ”ニュー・ウェーブ”な若者たちには、どちらかというと『雨の慕情』の「昭和歌謡」的世界観はもう古臭く感じていただろうと推測する。だからこそフックになるのだ。
そして阿久悠、という男性は、受け入れる構造を持つ女性の肉体に対して、ある種の羨ましさを持っていたのではないかと思う。「憧れ」とは、自分のコンプレックスを埋める信仰であり、よって、対象は過剰なまでに美化される場合がある。
美しい言葉でその「憧れ」を掘り出した阿久悠は、だから稀代の作詞家として現在にも名を残す存在となった。昭和歌謡で唄われる「耐える女」の正体は、女の肉体にその身をくるんだ、未練がましく、しみったれた「男性」の可能性もあるのではないか。
美しい日本語で極端にデフォルメされた「男」と「女」をどう唄うか、聴くかによってある種のメタモルフォーゼの可能性を感じていて、それが「昭和歌謡」について思考と実践を繰り返す理由となっている。『新宿の女』をduMoで唄うたびに、いまだ“しっくりくる肉体”を持っていない私は「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」という出だしの一節に、特別な感情をもつ。
私は“男”になりたかった。“少女”とみなされたくなかった。“少年”になって、パンクロックをやることを夢想し始めた頃に出会ったこの曲は、はっきりと「私が男になれたなら」という懐かしくも消えない欲望を引き出してくれる。“耐える女”ではない私が、「昭和歌謡」の新たな面を照らせるのではないかと、思うのである。
「こんなので騒がれるようじゃ…」への反発
「現場を追い詰めるような行程がある方が純粋で素晴らしい作品ができるんだよ。女殴ったくらいで騒がれるようじゃ、もうつまんないものしかできないよね。」
戦後の文化を熱く語ると、リアルタイムでそれらを楽しんでいた世代(多くは男性)は「キミもそう思うでしょ?」を言外に匂わせながら、特に悪意のある風もなく言った。しかし、こうした古参のファンたちへの反発こそが、謎のロシア人二人組という設定の背景にある。
「昭和歌謡」にはノンネイティブの日本語話者が日本語で唄う“キッチュさ”が魅力とされるものがあり、そのオマージュの意味合いもある。しかし、同時に日本人が現代に「昭和歌謡」を演奏するにあたって、過去の日本の社会構造すらも礼賛するような意図が含まれてしまうのを避けるためのギミックでもあった。
オリジナル曲も、昭和歌謡曲のフォーマットは踏まえつつ、差別的な意味を持たせない様に気をつけているつもりだ。「コスプレはやりたくない。」という私の意見をギタリストの羽賀はよく理解してくれていた。
しかし結成から8年の歳月が経って、例えばK-Popのアーティストたちが日本の市場向けに日本語をわざわざ喋らされ、それがファンに無邪気に消費される様子などを見るだに、この「外国人風キャラクター」という設定にも限界が来ているな、と最近は反省もしている。
歌は世につれ、世は歌につれ。世も歌も、所詮は人のつくりしもの。人が進化しなければ、世も歌も進化しないのだと、身をもって感じる昨今である。
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筆者のニイマリコさんのユニット「duMo」が近日ライブに出演予定です。
4/17(土)奥原宿DATE.
「黄昏番外連合地」
open 16:30 / start 17:00
ご来場(限定10名)¥3.000(+1D)
→dateataoyama@gmail.comにてご予約受付中
配信チケット¥1500(5/1まで見放題)
→配信チケット購入はこちらから
【出演】duMo(ニマリコフ+ハガーリン) / 昭和ひねもすよもすがら(日比谷カタン+四ッ谷みれん)
※四ッ谷みれんはチエルーム似
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執筆=ニイマリコ