ズボンもスカートもどちらも選べる自由を…異色の西部劇アニメ『カラミティ』が今刺さるワケ

※この記事は映画『カラミティ』(2020)のネタバレを含みます。

2021年、もっとも見るべきアニメ作品のひとつが9月から日本公開になった。アメリカ西部開拓時代を描いた映画『カラミティ』である。

『カラミティ』は、19世紀に活躍した実在の女性ガンマン「カラミティ・ジェーン」の少女時代を題材にした作品だ。

監督は、前作『ロング・ウェイ・ノース』で日本のアニメ関係者・好事家たちを虜にしたレミ・シャイエ。制作スタジオは『ロング・ウェイ・ノース』に続いてシャイエ監督とタッグを組む、Maybe Moviesだ。

「丸い鼻の女の子が主人公だっていい」

本作品は非常にすぐれた芸術性を備えていると同時に、「『女らしさ』からの解放」という極めて今日的なテーマを描いた作品でもある。

『ブレッドウィナー/生きのびるために』・『ウルフウォーカー』(いずれもカートゥーン・サルーン)や『幸福路のチー』(Happiness Road Production)など、今や「女性の権利」や「自立」についての物語は、実写映画に限らずアニメ映画の分野でも盛んに描かれるようになっている。

シャイエ監督『ロング・ウェイ・ノース』も本作と同様、若き女性の自立と冒険の旅を描いた意欲作だった。

満を持して日本公開になった本作の主人公、“カラミティ(疫病神)”ことマーサ・ジェーンは、「女」や「男」といったさまざまな「枠」からとことん自由で、奔放な性格の女の子である。

その型破りさは、まず彼女のキャラクターデザインに見て取ることができる。マーサのキャラデザについてシャイエ監督は「実際のカラミティ・ジェーン本人の風貌を参考にした」と語る。

しかし制作途中、観客ウケを気にした出資者により「もっと美人のキャラにしないか」と要望を受け、一度は修正しかけたという。それに反対したのは、シャイエ監督の女性の友人だった。

「丸い鼻の女の子が主人公だっていい」という友人からの叱咤によって、マーサのキャラデザは気の強さがあふれ出るような現在のものへと落ちついた。ストーリーボードの制作に携わったマイリス・ヴァラッドは、マーサのキャラデザについて「一般的な外見という枠から脱却する必要があ」ったと語っている。

このオリジナリティあふれるキャラデザなしに、マーサというキャラクターは成立しえなかっただろう。

冒頭、マーサの顔が映される印象的なカットから、観客はその強い意志をたたえた表情に圧倒される。

「女主人公らしさ」から逸脱した強烈な目力、太い眉、そして団子のような丸い鼻のマーサは、冒頭の1カットで堂々たる存在感を示し、「既存のキャラクターと私はちがう」という意思を表しているかのようである。

西部開拓時代と現代に共通する、「○○らしさ」を強いる構造

作中で、マーサと彼女の家族が行動を共にしている開拓者たちの幌馬車隊は、西部へと向かう旅の途上にある。「オレゴンルート」と呼ばれたルートを辿って、3,000km以上離れたカリフォルニアに向かおうとしているのだ。

19世紀、牧場主や金鉱掘りなど様々な夢を抱く人がこのルートを辿って西部を目指したが、内10%は命を落とすほどの危険な旅路だった。

マーサ一家は貧しく、ひとり親家庭で、後から隊に加わったという事情から旅団の中でも浮いた存在である。そのことは、一家の身につけている衣服や、馬車のおんぼろさといった面に細かく描写されている。

「服装」は本作において重要なファクターであるが、なかでも、不慮の事故により父親に頼れなくなったマーサがズボンを穿き、馬に乗り、髪を切るシーンは本作の“アイデンティティ”ともいうべき象徴的なシーンである。

マーサは決して「男になりたい」からズボンを穿いたのではない。ズボンを穿いてもなお、マーサは女の子だった。

彼女はただ、「ズボンの方が楽だから」「長い髪は邪魔だから」という合理的な理由でそうするが、周囲はそうしたマーサの合理性をゆるさない。

スカートとエプロンを身につけ、家父長制に従い、つねに馬車の周囲を離れないように行動するよう強いられていた女性たちから見ても、マーサのふるまいはあまりに異端であった。

マーサがズボンを穿いただけで「どうかしている」となじられる場面は、今の観客からすると「そのリアクションこそバカげている」と言いたくなる。しかし現代においても、「〇〇らしさ」や慣習から自由になれないがゆえに、かえって不合理な判断がなされる場面が、しばしば見受けられる。

たとえば、今から3年前に明らかになった東京医大ほかの入試における女性差別問題。

個人の学力を無視し、男性や現役生を優遇する点数操作が長年にわたって行われ、女性の合格者が毎年3割程度にとどまるよう“調整”されていたことが明るみに出て、大問題になった。

差別的な措置を行ってきた大学は当時「医師不足解消のため」だったと主張したが、であれば男女関係なく学力を上から数えて合格者を決め、将来有望な学生をより多く育てることこそ合理的であろう。

実際、不正発覚後の合格率をみると、男女の合格率にほとんど差はなくなっている。

医師のように激務に追われる職種において、女性の働き手が中心になりづらい状況は理解できる。しかし男性が家事や育児など、家のなかのことがらへの参加に消極的でも仕事に専念できるのは、それら私生活の面倒をみてくれる女性の存在のおかげにほかならない。

家庭内において、女性に一方的に家事や育児を「期待」する風潮もいまだ根強い。

それに、女性ばかりになると仕事が回らなくなるというのであれば、女性が多数を占める看護や介護業界ははじめからまったく仕事が立ち行かなかったはずである。

必要なのは、適した人が適した場所で無理なく働けるように機会を与え、環境を整えることだ。

マーサは、それまでスカートだけを穿かされている状態に窮屈さを感じていた。決して、好き好んでスカートだけを穿いていたわけではない。事実、ズボンを穿き、髪を短くしたマーサは幌馬車隊のリーダーであるアブラハムから装いや行動を否定され、父親にまで嫌悪される。

個人の適正・能力を無視した性的役割というものは、今も昔も変わらず単なる「個人の選択」によるのではなく、それを強いる社会構造ゆえのものということである。

加えて『カラミティ』という作品の秀逸さとして、マーサを縛る「女らしさ」の呪いだけでなく、「男らしさ」の呪いについても巧みに描いていることが挙げられる。

マーサの目が暴く、虚飾の「男らしさ」

物語の前半では、幌馬車隊という限られた空間の中で多層的な男性社会とその問題点が描かれる。

マーサの一家は幌馬車隊の中でははみ出し者であり、父親のロバートはマーサに対しては家父長主義的な態度をとるものの、一方ではアブラハムや旅団の仲間から不興を買わないか、絶えず怯えている。

また、マーサのことを“弄る”男子グループのひとりであるイーサンも、マーサに対して威張ってみせつつ同じ男子グループの仲間から笑われたり、父のアブラハムから叱られるなどのプレッシャーにさらされている。

そして旅団の頂点にいるアブラハムこそ究極の「強者男性」かと思いきや、彼もまた、外部から軍人サムソンがやって来たことによって、能力不足やあやまちを認めることができない不出来な一面がさらけだされる。

マーサが幌馬車隊を離れて旅に出てからも、この「男性らしさ」を取り巻く構図は一貫している。

印象的なのは、後半登場する「保安官」と「大佐」というふたりの人物である。

彼らはホットスプリングスという町の権力者として威張っているが、破天荒なマーサとのドタバタ劇のなかで度々失態を犯し、滑稽な姿をさらす。

加えて、幌馬車隊の隊長よりも上位の強者男性として登場したサムソンもまた、終盤、彼が強者として振る舞うためにとある「嘘」を吐いていたということが明らかになる(ネタバレになるため、詳しくは本編を確認してほしい)。

幌馬車隊の中で、あるいは旅の途中でマーサが目にする男性たちは、本質の部分ではどこか自信がなく頼りなげで、自分自身の弱さを補うためにみな「男らしさ」の虚飾に縋っているのだ。

そんな男性たちとは対照的に、縦横無尽に男性社会の秩序を掻き乱していくマーサだが、一見無軌道にみえる彼女の行く先に終盤、ひとりのキーパーソンが現れる。

マーサを導くロールモデルの存在

自身で金鉱の採掘を采配するムスタッシュ夫人は、地質学の勉強をしたと語り、契約書にも自分の筆跡でサインをする。この時代にしては稀有な自立した女性といえる。

1920年に合衆国憲法修正第19条が成立する前、女性に参政権すらなかった時代に、マーサが高等教育を受けた女性に出逢えたのは奇跡にも等しいできごとだったに違いない。

ムスタッシュ夫人というキャラクターはマーサのひとつのロールモデルであり、この作品が謳う「〇〇らしさ」からの解放を、マーサという子どもに特有のもの・一過性のものにしないために重要な存在だ。

彼女のような自立した大人の女性のあり方が示されることで、観客もまた世界には多様な女性の生き方があることのだと気づかされ、自分らしい人生の将来像を思い描けるようになるのである。

スカートもズボンも、自由に選択するために

幸いにも、現代の女性はマーサのようにズボンを穿くだけで「どうかしている」と罵られることはない。

ただし現代女性、あるいは女性に限らずあらゆるジェンダーの人にとって、マーサに不自由を課していた「スカート」はかたちを変えて存在している。

たとえば選択的夫婦別姓の問題であったり、同性カップルが婚姻制度から排除されている問題などもそのひとつとして考えられるだろう。

今までと異なる選択をしようとする人はつねに「想定外だ」と言われ、白い目で見られるが、最初にズボンを穿いた女の子がいたからこそ、今の女性はバッシングを受けることもなく好きな装いやふるまいができるようになってきた。

注記しておきたいのは、マーサがズボンを穿くということは、女からスカートを奪うという意味ではない、ということだ。実在のカラミティ・ジェーンもまた、作中と同じように普段はズボンで過ごし、時おりスカートを穿くこともあった。

選択肢が増えるということは、従来の選択肢がなくなることを意味しない。ましてや今までと同じ選択をする人がなにかの権利を失うのではないか?というのは、今まで他人の分の席まで脚を広げて座っていた人による杞憂ではないだろうか。

もし今までと変わることがあるとすれば、ありのままの自分で生きることを否定されて、悲しい思いをする人が減るというだけのことだ。

マーサが生きた時代、今までと違う生き方を望む者は殴られたり汚名を着せられたりしながら、自分を貫くしかなかった。あるいは、それができずに規範通りの生を強いられた人たちも、数えられないほどいただろう。

今のわたしたちには、すくなくとも意思を示す権利は保障されていて、その機会も用意されている(この国の民族的マジョリティであるわたしなどは、長年日本で暮らす外国籍の人たちにあるべき参政権がない問題も、片方では留意しなければいけない)。

くしくもこの記事が公開された3日後は、衆院選の投開票日である。期日前投票は、すでに開始されている。

本レビューではもっぱらフェミニズムやジェンダー的な切り口から語ったが、本作はわかりやすくエンタメ性の高い作品でもあり、大人から子どもまで掛け値なしに楽しめる。また、美麗かつ実験的な美術やアニメーション表現をみているだけでも、映画代の元は充分取れるだろう。

『カラミティ』は全国にて順次、公開予定だ。詳細は公式サイトにてチェックできる。

ジェンダーを問わず様々な人に本作を見て、ぜひ自分なりの「自由」を見つけてほしい。

そして、マーサの活躍でさまざまな「〇〇らしさ」から解放され、新たな活路を見いだした開拓者たちのように、わたしたちの生きる社会がより自由になっていくために、一人ひとりになにができるのか、すこしばかり思いを馳せてみてほしい。

そしてできれば、行動してみてほしい。気もちよく映画館を出た、帰り道にでも──『カラミティ』の世界に魅了された、いちファンからの提案である。

参考:

1. 2021年10月18日閲覧, 朝日新聞

2. THE ART OF CALAMITY, 2020年, Maybe Movies

3. 2021年10月18日閲覧, 読売新聞

4.2021年10月21日閲覧, 朝日新聞

5. 2021年10月18日閲覧, 日本経済新聞

執筆=紫瑜
画像=Unsplash

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