俳句コミュニティにフェミニズムの視点を。私が「俳句生活安全缶バッジ」を作った訳

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「わたしは作中人物じゃないですよ」
「女流って呼んだらコロス」

こんなメッセージの缶バッジを「俳句生活安全缶バッジ」と名付けて販売している。俳句を読み、たまには自分でも作る市井の「俳人」のわたしがなぜこんなグッズを製作販売するに至ったのかお話ししたいと思う。

まずはそれぞれのメッセージについて解説しよう。

「わたしは作中人物じゃないですよ?」

俳句に登場する人物や俳句の中の出来事と作者本人を混同しないでほしいというメッセージだ。

小説の場合、作者のわたしが作中人物ではないのは当たり前のことである。しかし俳句や短歌の場合は歴史的な経緯もあり、作者と作中人物が安直に結びつけられがちなのだ。

俳句を作るひとたちは「句会」という批評会を盛んに開催する。多くの場合、誰が書いたかわからない状態で俳句を相互に批評して最後に作者を明かすのだが、作者が明らかになった際に作者本人と作品のギャップに言及したり、俳句の内容にちなんで冷やかしたりする場面を何度も見てきた。

昔のことではあるが、わたし自身、配偶者の登場する俳句を書いた俳人に対して「あれ? ○○さんご結婚されてましたっけ?(笑)」と言ってしまったことがある。不適切だった。

また、句会に限らず俳句の批評を行う際に作中人物のことを作者と呼ぶひとは多い。

たとえば、

むかし吾(あ)を縛りし男(お)の子凌霄花 中村苑子

この句に対して「作者は幼い頃、男の子と遊んでいて縛られてしまったのだ」と書くようなことがよく行われるのである。吾=作者と決める必要はどこにもないのだが。(俳句の批評における「作者」とは生身の作者のことではない、という意見も聞いたことがあるが、なんじゃそのローカルルールは。批評に使う用語としてあまりにもわかりにくいわ)

そしてこの手の作中人物と作者の混同は容易にセクシャルハラスメントに結びつく。

「それで、苑子ちゃんはさあ、縛られたときどんな気持ちだったの? 怖かった? それともドキドキしちゃったの?(ニヤニヤ)」

こう来れば完全にセクハラ。主催者から厳重注意の上しばらく活動休止してもらいたいところだ。(中村苑子氏は大正生まれで平成13年に没した現代俳句の巨匠ですがセクハラの例示のために使ってしまってごめんなさい!)

そんな絵に描いたようなセクハラおじさんいないでしょ、と思うかもしれないが、句会に出たことがあるひとなら苦虫を噛み潰したような顔で「あー……たまに……いますね……」と答えるだろう。句会のその場では言わなくても、二次会の居酒屋で言うとかね。

たとえセクハラに至らなかったとしても、作中人物と作者を混同してかかるのは迷惑になり得る。作品に絡めて私生活を詮索されてはたまらない。随筆や私小説を書くように俳句を書くひとはいるが、その場合であっても作者のプライベートに無遠慮に踏み込まないよう批評の場では十分に注意したい。そんな思いからこのメッセージは生まれた。

なお、実際に俳句の現場で行われてきたハラスメントについて知りたい方は高松霞さんのnoteをご一読いただきたい。高松さんは2019年から「短歌・俳句・連句の会でのセクハラ体験談」のアンケート調査を行っている。プライバシー保護のためどの証言がどのジャンルから出たものかわからないようになっているが、批評会の盛んな文芸ジャンルならどこでも起こり得る内容だ。

「女流って呼んだらコロス」

男性の作家が「男流」と呼ばれることはないのに女性は「女流」と呼ばれてしまう。多種多様な女性の作家を無理やり女流という流派っぽい枠組みに押し込めて安心しようとする愚行はもう終わりにしてほしい。

実際には現代の現役の女性作家が「女流」呼ばわりされることはそう多くないかもしれない(少なくとも著名作家たちの世界では)。ただし女性の作家が女性らしさ、華やかさ、見た目の美しさ等を期待されがちな点については改善されているとは思えない。

また、女性の作家を対等な存在として見ることなく男性作家にとっての「ミューズ」として祭り上げるスタイルの差別もある(これが問題化したのは俳句ではなく短歌の世界だが※)。

女流俳人ではなく俳人として扱え。女である前に人間として扱え。そんな気持ちを込めたのがこのメッセージだ。なお、「コロス」がきつすぎると思われる場合はギリシャ劇のコロスをイメージしていただきたい。

以上の説明ですでにおわかりいただけたと思うが、俳句生活はハラスメントに遭遇する危険がいっぱいなのである。だから安全に過ごせるように小さなお守りとして缶バッジを作った。句会用バッグにインパクトのある缶バッジをつけていけば、誰かがそれを見つけて話しかけてくれる。「どういう意味なの?」と尋ねられれば、ハラスメントの問題を話題にすることができる。

想定ユーザは他にも、それでもあえて名指すのは

これらの缶バッジが想定しているユーザーは俳人だけではない。俳句・短歌・連句・現代詩・小説など、文芸を中心とした創作を行っている方、またその読者の方々にも広くご利用いただきたいと思っている。

敢えて俳句と冠したのは、俳句のひとは名指しされないと当事者だと思わないだろうという確信があったからだ。短歌と比べると俳句はフェミニズム的な視点で実作したり批評を書いたりするひとがまだ少ない。

セクシャルハラスメントの問題も短歌ほど表沙汰にならない。SNS上や句会、その他のイベント等で缶バッジが話題になることで、まずは創作にまつわるハラスメントについて話すきっかけになればいいと思っている。

2021年5月に販売を始め、7月までにわたしの元から旅立っていった缶バッジはおよそ100個。できるだけいろんな世代の方に知っていただきたいのだが、わたしのツイッターアカウントのフォロワーは30代・40代の方が多く、10代・20代には届きにくい。

そこで6月には24歳以下対象のプレゼント企画を行った。応募者は思ったより少なかったので、今後はなにか別の方法で広めることを考えたほうがいいかもしれない。

最後に、俳句の現場で行われているハラスメント防止の取り組みを紹介しよう。

西川火尖さんらが参加する「子連れ句会」は、「セクハラやアルハラを始め、あらゆるハラスメントの防止に取り組むことを宣言します。」と明言している。こういった言葉があると自分が参加するにしても安心できるし「俳句を始めたけどどの句会に行くのがいいかわからない」というひとに紹介しやすい。

ついでに言うと、俳人夫婦の妻だけが「育休」のように俳句を休んだりそのまま引退したりして夫は何もなかったように俳句を続けているという事例を過去にいくつも目にしてきた中で、子供同伴が前提の句会という試み自体がこの不平等を是正しようとするものであり意義深い。

なお、子供がいなくても、子連れでなくても参加可能である。

執筆=石原ユキオ

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※ 2019年2月17日、加藤治郎氏は「#ニューウェーブ歌人メモワール / 水原紫苑は、ニューウェーブのミューズだった / 穂村弘、大塚寅彦、加藤治郎、みな水原紫苑に夢中だった / 凄みのある美しさが、彼らを魅了した」とツイートした。当該ツイートは削除済みだが現在もTwilogで確認可能。ツイッター上でちょっとした炎上騒ぎとなっただけではなく、短歌総合誌等でも批判を受けた。

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