「女ってすばらしい」は誰を置き去りにするのかーー『キングコング・セオリー』書評

『キングコング・セオリー』の第1 章『バッド・ガールズ』では次のような「女」たちがあげられる。

「私はケイト・モスというより、キングコングみたいな女だ。誰も妻にしたり、一緒に子どもをつくったりしないタイプの女。常に自分自身でありすぎる女。(中略)売れ残りの女、まともじゃない女、スキンヘッドの女、服の着方を知らない女、体臭を気にしている女、歯がボロボロの女、どうすればいいのかわからない女、男からプレゼントをもらえない女、誰とでもやる女、太ったヤリマン…」

私が高校生の頃は「女子力」というワードが一大トレンドだった。

見た目を綺麗に整えメイクなどの研究を怠らないこと、痩せるために努力すること、周りに気を使うこと、料理や掃除などの家事が得意であること、それらはすべて「女子力が高い」という言葉で評価され、男性にモテるとされ、身に着けた方が良いとテレビや雑誌では言われていた。

2018年にも「ちょうどいいブス」という言葉が高まりをみせていた。

「ブス」はそのままでいてはヒエラルキーの最下層だが、気づかいや見た目を整える努力などの「分をわきまえた」行動を取ることでそこから抜け出せる、つまり男性に選ばれる「ちょうどいいブス」になれるというものだった。

「女子力」「ちょうどいいブス」が耳目を集める時代から、徐々に移り変わりつつある。

雑誌やテレビでも「美の多様性」などの言葉が踊り、「ありのままの自分を愛そう」というエンパワメントカルチャーが台頭したり、ジェンダー平等がゴールのひとつとしてあげられる「SDGs」もトレンドとなっている。

しかしそこにデパントがあげたような女性たちの居場所はあるのだろうか。

利用されるフェミニズム

最近「フェムテック」という言葉を頻繁に目にする。それらは生理に関するものやプレジャーグッズ、肌質改善や不妊治療のためのサプリメントなど多岐にわたるものを指し、「女性の生きづらさを解消する」や「女性の自己肯定感をあげる」「セルフラブ」などのエンパワメント的キャッチコピーと共にファッション・カルチャー雑誌でも2020年以降頻繁に記事化されている。

もちろん女性の身体のこと、とりわけ健康や性のことが社会の中で置き去りにされてきた現実があるのは確かだ。生理期間が過ごしやすくなることは、生理のある身体に生まれた人々の暮らしの向上や、災害時にも役に立つだろう。肌の悩みをどうしても解消したい人もいるだろう。

しかし、これらの製品を使えば「女性の生きづらさ」は解消されるのだろうか?

女性たちを生きづらくさせ、自己肯定感を下げているのは、生理について公然と話し合うことを恥ずかしく思わせるような空気や、男性に選ばれて結婚し子どもを産むことを“普通”とする規範意識、より美しくあるべきというルッキズムなどの、社会に満ちる偏見の数々なのではないか。

そこから目をそらし、「生きづらさを解消する」という謳い文句で自分自身の身体や心のメンテナンス品を安くはない値段で売ることは、ラッピングを変えた新しい「女性」のイメージを売っているのと同義だ。つまりそれを購入するだけの財力があり、セルフケアにより心身ともに健康で、男性と対等に渡り合うこともできるが、彼らに自分を選ばせる美しさも磨くことを忘れない女性。

そのイメージから漏れた人々は再び透明化され、その生きづらさには変わらずスポットは当たらない。結局のところ大多数の女性は相変わらず「その他大勢」のままだ。

だからこそ、『キングコング・セオリー』は多くの共感を呼んだのかもしれない。

資本主義に利用されたフェミニズムのエンパワメントに居心地の悪さを感じる「その他大勢」であり、「女らしさの最下層民(プロレタリア)」(原文ママ)の側からの怒りが、そこには詰まっている。

「女」でいることは素晴らしくない

『キングコング・セオリー』はフランスで作家や映画監督などマルチな活躍を見せる女性作家、ヴィルジニー・デパントが2006年に刊行した自伝的フェミニズムエッセイだ。

レイプ被害者であり、売春経験があり、女性の名前で小説を発表したことがあり、ポルノ映画を撮ったことのあるデパントはユーモアと毒っ気のある口調で、しかしはっきりとそれらの属性がさらされる偏見やスティグマを批判する。「女らしさ」「男らしさ」という膜で覆われ隠された、見えざる人々を可視化する。

いわゆる「良妻賢母」のような「女らしさ」にも、エンパワメントの形をとって変化した現代の「女らしさ」にも平等にデパントは中指を立てる。その姿勢は資本主義社会によって対象を狭められた「女性活躍」「女性の自己肯定感を上げる」よりもずっとインクルーシブなものではないだろうか。

デパントはモニク・ティウィッグの「今日、私たちはまたしても罠に囚われている。おなじみの『女でいるってすばらしい』の袋小路に」を引用しつつ、更にこう続ける。

「この言葉は、中年の男たちが、私たちについてやたら言いたがる。彼らは、『女でいるってすばらしい』の微妙なロジックについては黙っている。ここでの女とは、若くて瘦せていて男を喜ばせることのできる女を指す。そういう女でなければ、すばらしいことなんてなにもない。二重の意味で女は疎外されている。」

つい最近、報道ステーションが若い女性が「良い化粧水」と「消費税増税」を並列に取り上げニュースにも関心のある様子を見せるCMを打ち、批判を浴びた。

森喜朗氏が女性秘書に対して投げかけた「女性というにはあまりにもお年」という発言も記憶に新しい。

「女性」でいることに素晴らしさなんてない。健康や見た目のメンテナンス品が充実していようが、「セルフラブ」と言われようが、こんなにも狭量な「女性」に対するイメージがはびこる社会で生きづらいのは当たり前だ。この生きづらさは、傷つけられた自己肯定感は、けして醜いせいでも頭が悪いせいでも男性に選ばれないからでもないというデパントのメッセージもまた、欠かせないエンパワメントであるはずだ。

執筆=Kobin
トップ画像=pixabayより

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