「男女逆転」が暗示するものーーフェミニストが読んだ『大奥』

※本記事は漫画『大奥』の内容に触れております。ご了承の上、記事をお読み下さい。

2021年2月26日に完結した、よしながふみ著『大奥』は、わたしがフェミニズムを知らなかった16年前に始まった連載だ。

私が読み始めたのは10年前で、当時は特にフェミニズムリーディング*をしようと思って読んでいたわけではない。わたしは高校生の頃、日本史研究会なるものに所属しており歴史への関心や知識はそれなりにあったが、歴史とフェミニズムがこんなかたちで交わっているとは想像もしていなかった。フェミニズムについて考えるようになって、初めてこの作品の真髄を見出せた気がしてならない。

著者のよしながふみは過去のインタビューでこう語っている。

私は男性だから女性だからということよりも、政権を血で継いでいく限り、どの将軍にとっても大奥は悲しい場所だということを描きたかったんです。

まさに当時の社会構造と政(まつりごと)の仕組みに翻弄された人々の人生の無常さを描き切っている。

男女逆転の設定が可視化するもの

実写ドラマや映画にもなったことで、作品名やなんとなくのストーリーラインは知っている人も多いと思う。“男女逆転のSF大河ロマン” と何やら設定がてんこ盛りなキャッチコピーがつけられていた。

『大奥』は性差だけでなくあらゆる格差や不平等からの解放を目指し、世の安寧を願った人たちの執念の物語。“男女逆転” の設定は、それによってジェンダーや政治の問題が明確に浮き彫りになり、物語を通して強く訴えかけてくる点で重要なのだ。

性差は、性格、社会的/政治的関心、認知能力など、実際には性別と無関係な事象を説明するために誇張されることが多い。『大奥』はこの言説をくっきりと浮かび上がらせていた。

『大奥』から見えるジェンダーバイアス

まず赤面疱瘡の流行により男性が外仕事をできなくなった際、女性たちは家事や育児に加えて外仕事も行うようになり、それまで男性が担ってきた仕事も男性が従事する必然性がない可能性を提示する。また、女性が将軍を含む重役を担うようになったことで、逆に男性は政治の場から退けられ社会的権力が弱体化した。

これらの例は、割り当てられた社会的役割が性別へのアンコンシャスバイアスを生み出すのではないかと示唆している。

このように男女逆転の設定は、社会的役割をひっくり返すことで現実世界の歪みをより見えやすくする。しかし、一方でこの世界では現実世界と同様のジェンダーバイアスが残っていることも示唆される。

まずは家督を継ぐ際には女性であっても男名で届け出る習わしについて徳川吉宗が加納久通に問いかけるシーンである。

「その(女名では) ”しっくりこない” という我らの感じ方そのものに事の本質があるのやもしれん」

なぜ家督を継ぐのが女性だと “しっくりこない” と感じるのか。それはジェンダーロールに対して刷り込まれたバイアスが作用していると言えよう。

また『大奥』では女性蔑視の発言も繰り返し散見された。

桂昌院「女の子は殿方に気に入られて子供を産まなければ、そのためにはきつい目つきになるような過度な読書は駄目だ」

西郷隆盛「別に僕は女より男が偉いと言ってるわけでない。ただ男には男の、女には女の役割があるはず。女に政はできない」

単に社会的役割がひっくり返っただけでは差別や偏見が解消されないのは、その他の要因が複雑に絡み合い作用しているからである。これは後述するインターセクショナリティとも関連するが、どうもこれらの発言は性別を主軸に据えることで論点が単純化されすぎているのではないか。

例えば西郷隆盛の主張においては、「政ができない」とされるその他のファクターが文脈から消し去られているのが問題であると考える。政が上手く機能していない理由には、武家制度や社会階級の構造的問題が深く関係しているだろう。ここで目を向ける先をジェンダーに絞ってしまうのは非常に危険だ。

また、徳川治済が息子の徳川家斉に向かって放ったこの一言は鮮烈である。

「男がそういう政にかかわる事をちまちまこの母に意見せずとも良いと何度申したら分かるのじゃ。(中略)男など女がいなければこの世に生まれ出る事もできないではないか」

これを読んだ男性はどのように感じただろうか。憤りを覚えただろうか。ここでは女性が男性に差別発言をするシーンが、男女逆転の設定により際立っている。女性が男性に対して権威的である場合、このような事態に陥ると言える。

これを逆説的に考えると、現実における男性がいかに女性を抑圧しているかがイメージしやすいだろう。つまり、性別を軸にした権力の非対称性や歪さこそが根本的問題であることが分かる。

描かれた多様な人間関係

さらに、『大奥』では多様な人間関係が非常に丁寧に描かれている点にも触れておきたい。男女間はもちろん、同性同士の性的関係、シスターフッド、誰とも恋愛も結婚もしない人も登場する。

今回は徳川家茂と和宮の関係性をピックアップして紐解いていく。家茂と和宮は、女性同士、正式な婚姻関係にあらず、お互いに性欲を抱かず、それでも養子をもらい、共に生きていこうとした。

ジェンダーや血縁や階級などの属性を全て取り払って、個人と個人が信頼で結ばれた結果だ。

また、二人のあいだだけではなく、子も含めた家族のあり方に対して柔軟な考えを提示した。

家茂は「人の親になるのにその子の父と母でなくてはならない訳では決してない」ことをはっきり理解し、その価値観を和宮と共有している。「まことに信頼に足る人物ならば夫婦でなくても二人で人の子の親になっても良い」と。血を分けなくとも家族は成しうることを理解した家茂は、長年徳川家を蝕んできた血族の呪いから自らを解放した。

また、本作品はインターセクショナリティをも物語に緻密に織り込んでいる点でも評価されるべきだろう。人種差別、性暴力、家庭内暴力、血縁関係、階級、障害の有無、ルッキズムなどが、社会や個人に及ぼす影響の大きさ。そしてこれらに対して登場人物がどう立ち向かったのか。

インターセクショナリティは現代のフェミニズムを考え、実践する上で欠かせない視点である。この作品からは差別構造はジェンダー以外にもさまざまな要素と交差しながら形成されていることがリアルに伝わってくる。

徳川家重は障害により言語が不明瞭であったため、周囲から差別や辱めを受ける描写が見られる。また、陰間出身の瀧山は「勉強など無駄」「年齢を重ねれば無用」「一生ここから出られない」と言われながら育った。(阿部正弘との出会いで彼の人生は一変するが……)江島はルッキズムに悩まされ、自分には身体的に魅力がないという呪いを背負っていた。それは彼の人間関係にも多大に影響を及ぼしていた。

これらのジェンダー以外の要素もきちんと掬い上げ、物語の中に丁寧に織り込んでいたからこそ、『大奥』はより深みを増したのだと思う。

わたしたちの生きるこれから

この物語はフィクションだが、現実との境目が分からなくなるほどリアルで迫るものがあり、わたしたちは今一度社会に根強く残るジェンダー問題について考える必要が絶対的にあると強く感じた。政治、仕事、家族などの仕組みについても、一人ひとりが今一度再考するべきではないだろうか。作中でハッとするような画期的な提言やアイデアが出てくるたびに、今の社会はまだまだ未達であることを痛感する。

しかし憂う事柄が山積する一方で、物語の上でとはいえ、歴史の上で世と人が目まぐるしく変わりゆく様を見ることは、今を生きるわたしたちも差別や抑圧と戦い、現状を変えていけるはずという希望を思い出させてくれる。

最後に、よしながふみが『大奥』という作品を通じて生きるということについて述べていると私が解釈した箇所を抜粋して終わりたい。これは性別を問わない、全ての人の人生観に関する鋭い見識である。

右衛門佐「生きるという事は、女と男という事は、ただ女の腹に種を付け子孫を残し家の血を繋いでいく事ではありますまい」

『大奥』と出会うことは、現実社会にも同様に散りばめられているジェンダーを始めとする格差や抑圧の構造的問題をより立体的に理解し、そこに向き合い戦っていくための礎の一つとなるのではないか。今までの考え方を覆し、信条を揺るがし、新たな行動を起こすためのきっかけはあちらこちらにあるものだ。

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注釈

*フェミニズムリーディング:フェミニズムの観点から作品を読解すること

執筆=四角
トップ画像=pixabayより

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