社会が悪趣味や露悪に慣れていたあの時代…テレビっ子だった私から見た、90年代といま

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私にとって、青春を過ごした1990年代の10年間の空気はとても深く根づいていて、おばさんになったいまも90年代のあれこれが影響しているのを感じる。

有難くも機会を頂いたので、当時の、バラエティーを中心にしたテレビ番組から見た1990年代について、ほんの少しだが話していきたい。

その前に、まず断わらないといけないのは、今回記事に書く話はあくまでも個人史でしかなく、経験したことも、思い出し考えたことも、すべて私という主観に基づくバイアスの掛かった証言でしかない。私の語りが正しいわけでもないし客観的な記録でもない。四十代以上の人たちが百人いれば百人それぞれの1990年代の思い出や記録があり、この記事についても「全く違う」と思う方も多いとは思うが、しばらくお付き合い頂けると幸いである。

90年代の私は、サブカル好きに対し一方的に「趣味には善し悪しがあり、わかる人にはわかると考えるおしゃれで純粋な人たち」という苦手意識を持っていた。『ロッキング・オン・ジャパン』などを読んで渋谷系や洋楽などの音楽を好んで聴くこともなく、『ぴあ』を手にミニシアターや小劇場に足を運ぶこともなく、『Olive』を読んで女の子としてのナチュラルで合理的な自分らしさを探すこともなかった。

これはサブカル好きな人たちが過ごしたあの時代の記憶と少し違う、アンダーグラウンドからもディープからも遠い、ただのイケてないテレビっ子だった私から見た、90年代と今の話だ。

様々な問題を剥き出しにしながら東京オリンピックは始まり、そして終わったが、そのあらわになった問題の一つが開会式のときの小山田圭吾の辞任劇であった。

90年代が忘れられないおじさんたちのノスタルジーと強権が発揮された結果、開会式と閉会式があんまりな状況になり「90年代の葬式のよう」とも表現され、さらに90年代サブカルの一部の傾向である「悪趣味」「鬼畜」というキーワードがクローズアップされていった。

この一連の流れのなかで二つ、気に掛かる言葉があった。
ひとつめは90年代サブカルの悪趣味について「あのころ全員がこうだったと思わないでほしい」という言葉、もう一つは90年代を振り返る風潮に対して、「当時は仕方なかったと言っているようだ」という反応だ。この二つの声に、私は小さな異議を唱えたい。

90年代のお笑いやドラマと露悪趣味

はたしてディープなサブカルに触れていないからと言って「当時の自分は鬼畜や悪趣味とは関係ない」と言い切れるのだろうか。

私は、90年代流行していたスニーカーやストリートといったファッションや、ユーロスペースやシネマライズなどのミニシアターで上映されていた映画のことは大まかにしかわからないが、テレビについてなら少しは話せる。『カノッサの屈辱』『料理の鉄人』『やっぱり猫が好き』『金田一少年の事件簿』『SMAP×SMAP』……。テレビっ子だった私が思い出す1990年代、テレビが映し出した世間の空気は、1980年代からの流れを受けて十分鬼畜で悪趣味で、意図的に露悪的だった記憶があるのだ。

なお『完全自殺マニュアル』がベストセラーとなったり、渋谷系の音楽が次々とチャートインするなどすぐそこにサブカル文化の入り口はあり、私の生活からいわゆる90年代サブカル、そして悪趣味や鬼畜を押し出したディープな世界まではグラデーションに繋がっていた。ただし、この記事は90年代のサブカルについての話ではない。

1990年代の、サブカル趣味よりさらに二件隣ぐらいの距離感にあった悪趣味、鬼畜系を押し出したサブカル世界について興味がある方には、その文化に生きていた香山リカ『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー -根本敬論-』やロマン優光『90年代サブカルの呪い』などの著書、あるいは雨宮処凛のブログ(「90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝」)などをおすすめするし、90年代のより広く鋭いテレビ論評を読むなら、ナンシー関のエッセイ『テレビ消灯時間』をおすすめしたい。

例えばバラエティ。1989年に始まった『とんねるずのみなさんのおかげです』『~みなさんのおかげでした』(1988~2017)ではゲストの女性へのセクハラが茶飯事であり、ストーカーや男性同性愛者を無神経に茶化したキャラがおなじみとなった。

『ダウンタウンごっつええ感じ』(1991~1997)は回を重ねるにつれ下品さが増し、“いじり”が暴力的だったことも記憶に鮮明である。そして『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(1989~1996)。これは芸人を逆バンジージャンプさせその勢いで全裸にするなど、怪我の恐れもある過激ネタが売りだった。

1990年代後半になると『進め! 電波少年』『進ぬ! 電波少年』(1992~2002)が、アポなし企画とドキュメンタリータッチと合わさり、猿岩石のヒッチハイクなど、出演者らの危険な行動を感動と交換する手法で人気を博す。一方長くフジテレビの看板となる『めちゃ×2イケてるッ!』(1996~2018)は長い歴史のなかで様々なコーナーや企画があったが、THE STAMP SHOWや爆裂お父さんなどいくつかのものは、暴力性やハラスメントが笑いどころであった。

なお、これだけはどうしても記しておきたいが、1990年代前半は麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚がテレビに風変わりなおじさんとしてバラエティにたびたび出演していた。オウム真理教の事件が発覚する前だったとはいえ、1990年代の教訓として、地下鉄サリン事件が起こるまで、オウム真理教は文字通りネタとして文化のなかで消費されていたことを、私たちは決して忘れてはいけないと思う。

90年代のドラマもまた記憶に残っている。「ジェットコースタードラマ」と呼ばれ精神崩壊や死体損壊など過激な展開が売りだった『もう誰も愛さない』他二作(1991~93)、過度に強調されたマザコンやストーカー行為が描かれ、冬彦さんが流行語となった『ずっとあなたが好きだった』(1992)。

『悪魔のKISS』(1993)は社会の暗部に切り込む形で、女性三人が地獄に陥る様を過激な描写で見せるドラマだ。また『ポケベルが鳴らなくて』(1993)や『失楽園』(1997)などのような不倫ものでなくても不倫する女性キャラがよく出てきたし、強姦(未遂)や自殺(未遂)、ストーカー行為もまた設定として良く使われていた。

そして90年代といえば野島伸司ドラマの時代であった。『高校教師』『ひとつ屋根の下』『家なき子』『この世の果て』『人間・失格』『聖者の行進』と次々とヒット作を連発。いずれも社会派と呼べる題材だが、一方で暴力や虐待、いじめ、近親相姦、強姦に自殺など、深刻で悲劇的な不幸が頻繁に描写されていた。

当時の高視聴率ドラマ一覧を見ると、90年代前半は恋愛、ホームコメディと並んで不幸ものが多く、90年代後半になると次第に障害や難病を乗り越える純愛ものが混在していくのが見て取れる。それを社会派や人間ドラマとして捉えるかは当時見ていた人と、いまの時代の感性から見る人とで意見も分かれるだろう。しかし、いま振り返ってみると、ショッキングそしてセンセーショナルなものに見えるのは確かだ。

他にも音楽番組を見れば『うたばん』(1996~2010)での女性アイドル、特に一部メンバーへの扱いはセクハラといじめそのものであったし、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(1994~2012)では泥酔した女性をそのまま部屋に持ち帰る男性アーティストのトークが鉄板ネタとしてお茶の間に流れたこともある。

最近まで地上波で放送していた『噂の東京マガジン』(1989~2021)の一コーナー「やってTRY」は、今でこそあからさまにミソジニーな企画として知られているが、1990年代前半は私含め男女問わず楽しみにしている人が少なくなかった。

そして90年代も半ばを過ぎ、世の中の空気が変わる頃からは女子高生ブームが盛り上がった。スカートを短くしメイクでアゲる女子高生たちがマーケティングの中心になる一方、「自らの意思で身体を売る」女子高生の自己決定権に注目が集まる。そして「小遣い稼ぎのために援助交際する未成年」という図式に沿って、夕方のニュース番組はたびたび渋谷の女子高生を取り上げていた。当時を覚えている中高年の人のうちの一部は、いまだこの「若い女性の自己決定権」のイメージから抜け出せないままだ。

ひとりひとりが時代と社会を作っていく

テレビを含むメディアというのは、世論を一方的に作るだけではない。テレビ番組は視聴者に影響を与えブームを作るが、一方で視聴者に求められない番組はすぐ打ち切られるため、時代の空気や視聴者の求めるものに制作側は敏感になる。

メディアが放送する、視聴者が見て楽しむ、視聴率が上がる、さらなる視聴率を狙ってメディアが製作する……という相互の循環から、社会の空気がテレビに反映されていく。

「いじり」と言い換えられるハラスメント的芸風や、「身体を張る」という言い回しで肯定される不謹慎で過激なバラエティ、センセーショナルで暴力的なシーンが多かったドラマ。1990年代はそれらがウケたし、尖っていたし、時には社会の建前的な偽善にカウンターを食らわせる手段だという空気もあった。

当時気付いてなかった、あるいは気にしていなかった、関わってない。だから「悪趣味にも鬼畜系にも私は関わってない」と私自身もどこかで思っている。でも、社会が悪趣味や露悪への慣れに覆われていた時代を私は過ごしたのだ。

90年代の延長線上にあるいま

1990年代はこのような時代だったが、だから「仕方ない」と言って片付けるのも過去の切り捨てになってしまう。なぜ昔は社会として気付かず、気にしなかったのか。そのことを常に考え続けることで、よりましな社会に繋がっていくはずだ。

社会とは直線で前に進むひとかたまりのものではなく、無数の断片の運動が無限に続き変化しつづけるものという見方がある。その見方を借りれば、2021年の今は、1990年代から直線に前進したものというより、1990年代から形を変えた地続きである社会と言える。

1995年あたりから徐々にサブカルの中心は秋葉原とオタクカルチャーへと移った。そして1999年に誕生した2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)がオタクカルチャーの一部となると、2ちゃんねるや2006年スタートのニコニコ動画などに悪趣味な言葉や露悪的な態度が剥き出しの形で現れ、エコーチェンバー現象を起こしながらやがてサイトの外へとあふれて、冷笑的なしぐさやさまざまな差別をフランクに行う層が可視化されるようになる。

YouTubeやSNSで迷惑な行為をする人たちの動画にはドキュメンタリータッチのバラエティの手法がどこか重なる。先日メンタリストを自称するタレントのYouTube動画が炎上したが、一部のインフルエンサーと呼ばれる人たちがくり返し口にする差別的、露悪的な言動は、小山田圭吾の『ロッキンオンジャパン』のインタビューのように、いまもなお気付く人たちが声を上げるまでは流されていき、問題としてなかなか可視化されない。

また1980年代からサブカル女子たちの「私が好きなものが好き」という消費を肯定してくれた『Olive』は、90年代から徐々にナチュラルテイストのまま、賢く「ていねいな暮らし」志向へと視野が広がっていく。

その「ていねいな暮らし」は、80年代の「おいしい生活」「ほしいものが、ほしいわ」というセゾンの広告コピーに誘導された、消費行動により文化的に豊かで素敵な生活が実現するというビジョンと重なり、そして21世紀になり、特に東日本大震災以降は、生活のたのしみのため自分で自分の機嫌を取るという形の消費トレンドや、誰も責めず怒らない、という政治的に漂白された姿勢として表れているように思える。

このように、1990年代にあったものはいまもさまざまに形を変えてこの社会にある。

しかし、形が変わるというのは希望がある話だ。

例えば1990年代から今日のテレビ番組を比べてみると、社会は少なくとも暴力に反対しマイノリティへの認識が増す方向にアップデートしつつある。

最近のお笑いをはじめとしたバラエティは、ハラスメント的芸風の「いじり」より話芸やシュールさ、そしてゆるく素朴な楽しさに軸が移りつつあり、もう芸人が身体を張ることは必須でなくなっている。ドラマのテーマは1990年代後半から幅広くなっていき、社会派ドラマもセンセーショナルさやバイオレンスさよりリアリティを重視する方向である。なにも教えずに料理を作れない女性を笑うことのおかしさに気付く人も増え、そして女子高生は未熟な子供として保護されるべき存在へと見方が変わった。

これらは(社会学者の韓東賢氏が「社会的な望ましさ」と訳した(※))ポリティカルコレクトネスがテレビ業界に浸透したというよりも、この三十年で社会がハラスメントや女性、マイノリティの人権に対して耳を傾けるように変化し、その変化にテレビが呼応した結果が表れ始めているのではないか。社会は必ず、絶えず変化をするのだから、その変化がより良くなるよう、小さな力でも動くことは出来るはずだ。

社会で起きていることを他人ごとにしないために

私もまだ山のように気付いてない、気にしていないことがあって、そのうえでテレビを見て笑っているのは変わらない。しかし、個人が無関心であることは、社会やその問題と無関係であることを意味しない。

もちろん人間はすべてに関心を持つことも、すべてに気を配ることも不可能だし、社会の責任を一個人で持つわけにもいかない。大事なことだが、なにかに対して個人が出来ることは、それほどない。

しかし、気付き、声を上げたり、踏まれた人のそばに立つ人が増えるほど、社会は少しずつ変化していく。1990年代にもそうしている人がいた。いまもそうしている人がいる。テレビ番組を見ているうち、ある日同じことに笑えなくなった自分に気が付いた人もいる。

そうして気付いていなかった、気にしていなかった、無関心であった何かに気付いたとき、せめて「仕方なかった」と言わず、はなから他人事にしないようにする。

そこから始めていけば、きっと5年後、10年後、30年後の世界の変化が、よりましになっていくのではないかと、私は最近考えている。

https://news.yahoo.co.jp/byline/hantonghyon/20210501-00233314

執筆=いずみのかな

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