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インターネットとフェミニズムに関する発信をするメディアです。

Sisterlee(シスターリー)は、インターネット上の様々な趣味のコミュニティでフェミニズムが話題になる状況に焦点を当てたいと考え、編集人の妹が個人で立ち上げたメディアです(開設当初の媒体説明はこちらから)。

現在はきな粉、kobin、たぬきが編集部に加わり、4人で運営しております。2020年12月12日にnoteからMediumにサイトを移転しました(移転の理由はこちらから)。今後は新規記事をMediumに掲載しつつ、旧サイトの記事もときどきMediumにアップしていきます。noteはアーカイブとして残す予定です。

私たち4人にとって、フェミニズムへ興味を抱いたきっかけはインターネットでした。インターネット上でフェミニズムについて発信するSisterleeが、誰かにとってフェミニズムに興味を抱いたり、関心を深めるきっかけとなることを目標に、今後もサイトを運営できければと思います。

また、近年、フェミニズムの名のもと、トランスジェンダーの人々をフェミニズムから排除する動きが目立ちます。私たちはそういった動きに断固反対するとともに、「女性」の中にある多様性に向き合う発信もしていければと考えております。

寄稿者の皆様や取材協力者の皆様、読者の皆様のおかげで継続的に更新できております。改めて深く感謝申し上げます。今後もご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

2020年12月12日 Sisterlee編集部一同

※たぬきが編集部に加入したため、加筆しました(2020年12月30日)。


Unsplashより

「”美白”って何だろう?」

ちょうどそう考えていた時に飛び込んできた、花王の「美白」表現撤廃のニュース。

個人的には花王の取り組みに賛成している。

米国で、スキンケアの勉強を通じて学んだこと

米国滞在歴4年の私は、先日、アメリカのスキンケアカレッジ(エステティシャンになるための専門学校)を卒業し、新米エステティシャン兼メイクアップアーティストとして活動を始めた傍、社会起業家として「美容×SDGs」をコンセプトにSNSなどで情報を発信している。渡米前は美容外科のマーケティング部門に所属し、美容の現場と裏方の両方を経験してきた。

そもそも英語がほとんどできない私が、アメリカでスキンケアの学校に通おうと思ったキッカケは、渡米以降シミが急激に増え、肌の老化を感じ始めたからである。肌の勉強をすることは、今後の人生において自分自身の役に立つと考え、深く考えることなく異国での学校生活をスタートさせた。

卒業した今感じるのは、肌に関する知識を学んだだけではない、という事。

様々な人種が顧客として想定される中で、「乾燥・混合・脂性」などの分類とは別に、人種別の肌の特徴を考慮する必要がある。ちなみにアジア人の肌は、

・センシティブな肌質

・白人と比較すると加齢が目立ちにくい

・張りと弾力がある

・お手入れ(摩擦)によるシミができやすい

と分類されている。もちろん黒人の肌、白人の肌にもそれぞれ特徴がある。

多様な肌質、肌タイプ、肌色がある中で必要とされるのが「バランス」である。いかに黄金バランスに近づけたメイクをするか、いかに肌の色が映えるメイクをするか(どのカラーが馴染むか)といった考え方が根本にあるのだ。

多様性を認める、という意味でも「バランス」はとても重要なキーワードだ。

米国の消費者の「主体的に選ぶ姿勢」

また、アメリカの化粧品は法の規制が緩く、種類も多い。そのため、個人の選択が大切になる。製品を主体的に選ぶためには個々の成分知識が必要となり、結果として日本と比較すると、消費者の知識も豊富で、正確な成分情報が公開されている事も多い。

個人的に意見をディスカッションする場も多く、その中でバランスを重んじ、多様性を認められることになった事は大きな成長であった。

ちなみに、日本で常識となっている「ブルベ・イエベ」の概念はアメリカでは聞いたことがない。おそらくその理由は、「着たいものを着て、使いたいものを使う」と、ファッションやメイクにおいても個人の考えを尊重するアメリカ文化の中で、外部の物差しで分類されることに違和感を覚える方が多く、概念が浸透しないのではないからではないか、と考えている。

以前美容外科で勤務している際に気になっていた事がある。

二重幅についてだ。施術を経験したことがある私個人も含め、要望の多くは「二重の幅を広げたい」「目頭の部分から二重が欲しい(並行型の二重と呼んでいた)」というものであった。

理由としては、“二重の幅が広ければ目が大きく見える”、と考える方が多いからだが、実はこの考えには誤解がある。

実際には「黒目の見える範囲」が目が大きく見えるかどうかに関わっているので、二重幅の広さと目の大きさは比例しない。仮に、二重幅を大きくした事で、黒目の見える範囲が狭くなると眠そうな目となり、むしろ目は小さく見えることになる。

このように本質を知らず(もしくは考えず)にオーダーしてしまうのは何故か? おそらくメディアリテラシーの問題が潜んでいるように思う。また、“自ら調べて考え、その上でアクションを起こす”というロールモデルが少ない事も理由ではないだろうか。

それぞれが自分自身で「正解を考えてみる」事が、この情報社会で正しい知識を身に着けるポイントだと感じている。

「美白」の代わりに、どういった言葉を選ぶか

美白に話を戻してみる。

仮に「美白」という言葉を使わないとした場合、あなたならどういった言葉を選ぶだろうか。

例えばアメリカでは具体的にシミなど部分的には「lighten the dark spots(シミを明るくする)」や、「Remove the dark spots(シミを取る)」などと表現される。

また、理想的な肌の状態を表す言葉として「Bright Skin(明るい肌)」「Glowing Skin(ツヤ肌)」「Healthy Skin(健康な肌)」などと表現するが、韓国のK-beautyでは、そのまま「Tone up(トーンアップ)」と呼ぶこともある。これらは、シミやくすみを軽減し、艶やハリのある肌へと導くアイテムによく使われているため、日本の「美白」に最も近い概念だと考えている。

今回の花王や、2020年夏に発表されたJ & Jの「美白化粧品販売中止」に「敏感に反応しすぎだ」と感じる方もいるかもしれない。

けれど、ぜひ一度本質を考えてみて欲しい。“良い悪い”ではなく、美白とは何なのか、また今自分の肌に求めるものは何なのか、という事を。

少し立ち止まって考えてみる。この行為が日々の選択肢を広げるキッカケになる事を願っている。

・・・

執筆者のRinkoさんが主宰する団体、Clean Beauty Japanのウェブサイトが2021年4月から公開中。

Website: https://cleanbeauty-japan.org/
Twitter: @cleanbeauty_jpn

・・・

執筆=Rinko


Unsplashより

現在28歳で独身のシス・ヘテロ男性であり、これまでに一度も性交渉の経験が無い私は、恐らく世間が言うところの「非モテ男性」に属する。

敢えて明確に書くが、私は異性に対する性的欲求を抱いていて、恐らくそれ以上に恋愛に対する漠然とした憧れを感じてきた。そして10代の中頃から、自分がモテないという現実に悩み、鬱屈し、時には自分の人生に絶望するという「非モテ」に悩む日々が始まった。

ある程度年月が経ち、考え方に様々な変化が訪れた今でも、交際経験が更新されることはなく、気にしないように心がけようと思っていても「非モテ」に苦しめられる瞬間は存在する。

そしてそれは恐らく自分だけではない。特に最近では、「非モテ男性」や「弱者男性」といったワード、そしてそれを支持する動きを目にする機会が増えてきているように感じるし、メディアがこれらのトピックを扱った記事を公開すれば、その内容を巡って大量の意見がSNS上などで溢れかえる。

その背景には、社会構造や制度面など様々な領域におけるジェンダー間の不平等を訴え、是正を求める動きが加速する中で広まっていった”男性には生まれながらにして特権がある”という考えに対するマジョリティ男性側のある種の「戸惑い」や「反発」といった感情があるだろう。

自分の中で「非モテ(≒女性側から必要とされていないという感覚)」に悩んでいるにも関わらず、「特権を持っている(≒女性側よりも優位な立場にある)」という状態にあるというのは、決して居心地の良いものではないからだ。

一方で(あくまで個人的な感覚として)、かといってこのムーブメントに完全に共感するかというと、また微妙なところだったりしている。確かに居心地の悪さは感じているし、これを書いている今も「非モテ」であることに対する漠然とした不安や焦りを抱いている。だが、この感覚を例えばフェミニズムやポリティカル・コレクトネスといった動きへの反動へと変換するのも、それはそれで自分に合っていない、居心地が悪いような感覚に陥ってしまうのだ。

その背景には恐らく、自分がこれまでの人生で熱心に触れてきた「ポップ・カルチャー」が影響しているのかもしれない。何気なく触れてきた音楽や映画や様々な娯楽が、「非モテ」と同様に自分のアイデンティティの一部となっており、これもまた、簡単に剥がれることは無い。

現在の私を形造った、「アイデンティティ政治」の台頭

私の「考え方の変化」に大きな影響を与えたのは、2000年代後半から2010年代前半における欧米を中心としたポップ・シーンでの「アイデンティティ政治」の台頭である。

その象徴的な存在と言えばやはりレディー・ガガだろう。2011年に彼女が発表した「Born This Way」は現代に至るまであらゆるマイノリティにとってのテーマソングのような存在として燦然と輝いている。米国における国民的なイベントである2017年のスーパーボウルハーフタイムショーで同楽曲が次の歌詞も含めて披露されたのは、この「アイデンティティ政治」が根付いたことを象徴する瞬間だったと言えるだろう。

あなたの肌が黒くても、白でも、ベージュでも、ラティーノでも /

レバノン人でも、東洋人でも /

障害があっても、のけものにされても、いじめられたり、からかわれていたりしても、 /

今は祝福を、自分を愛して / だってそれがあなたなのだから /

ゲイでも、ストレートでも、バイセクシュアルでも /

レスビアンでも、トランスジェンダーでも関係ない /

私は正しい道にいる / 生きるために生まれてきた /

(レディー・ガガ「Born This Way」より抜粋)

当時10代後半だった私は、それまでジェンダーや人種について深く考えたことが無く、日本のバラエティ番組などで得た、マジョリティ側にとって都合が良いであろう偏った知識しか持っていなかった。だからこそ当時のレディー・ガガの提示したメッセージは自分にとって新鮮かつハッとさせられるものであり、また、世界中を熱狂させ、同時に大量のバックラッシュを巻き起こす彼女の活動には、明らかにそれまでのポップ・カルチャーにはなかった大きな動きを感じ取ることが出来た。

そのような動きに関心を抱き、欧米を中心としたポップ・カルチャーを追いかけていった結果、そこに込められたメッセージがリアルタイムで自分自身の考え方に影響を及ぼしていったのである。そして、その中には当然「フェミニズム」が含まれる。

2013年、ビヨンセは「***Flawless」という楽曲において、「男も女もみんなフェミニストでなきゃ(原題 : We Should All Be Feminists)」などで知られる作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ氏のスピーチ音声を引用し、大々的なフェミニズム宣言を行った。当時のライブパフォーマンスにおいて、彼女はスクリーンに同楽曲でも引用した次の言葉を大々的に映し出している。

「フェミニストとは : 性別間における社会的、政治的、経済的平等を信じる人のことである。」

勿論、それ以前よりフェミニズムに通ずる楽曲は多く存在していたが、当時のポップ・カルチャーの頂点に君臨していた彼女が、当時蔓延していた「Jay-Zを支える妻」や「セクシーなダンスで男性からの性的消費を誘発している」というイメージを正面から破壊したこの行動はシーン全体に絶大なインパクトを与えた。

当時の私も、これらの動きを経て、それまで女性に対して抱いていた先入観やイメージ、そして「フェミニズム」という言葉に対する感覚が変化していくことを強く実感していた。例えば、男友達同士での会話の内容に違和感を感じるようになったり、それまで無邪気に楽しんでいたものに対して「果たしてこれで良いのだろうか」という疑問を抱くようになっていったのである。また、自分自身が「男性である」という特権を有していることにもより自覚的になり、それに対して複雑な感覚を抱くようにもなっていった。

並行して、SNSなどのソーシャル・メディアが普及したことで、これまで無視されてきた怒りの声が可視化され、多く目にするようになったことも大きな出来事だったと言えるだろう。10代後半から20代という多感な時期において、そういった変化を敏感に感じながら、時にはアウトプットをしながら生きてきた結果、今、こうやって依頼を頂いてテキストを書いているのだと感じている。

さて、本来はこれで終われば良いのだろうが、本稿のテーマはそこではない。ここからは、そういった変化を感じながら生きていてもなお“気にしないように心がけようと思っていても「非モテ」に苦しめられる瞬間が存在する”という自分自身と向き合っていく。

様々な要素が絡み合う「非モテ」の悩みの実態

「非モテ」と一言で括ると「あぁ、モテたいってことですね」と短絡的に片付けられるかもしれないが、それに悩む男性が“実際に”苦しんでいる部分は様々であり、かつそれぞれの要素が複雑に絡み合っている。

・「恋愛して結婚して子供を産む」という、現代における一般的な成功のイメージから外れていくことへの不安や焦り

・「恋愛対象から相手にされない」という自らのルックス / 性格 / 職業 / 資産 / etc..に対する自己嫌悪感

・「恋愛経験が少ない =男性的な魅力が無い」 あるいは「性交渉をして初めて一人前になれる」という考え方から生まれる、男性として、あるいは人間としての劣等感

・「恋愛 = 高度なコミュニケーション」と位置付け、コミュニケーション自体に困難を感じる自分自身に対する無力感

・「恋人がいない = 孤独」という前提から生まれる、日々を生きる中で増幅される孤独感

・過去の恋愛経験(交際の有無は問わない)がトラウマとなり、思考がそれに縛られ、以前の生活を取り戻せなくなっているという空洞感

etc…

上記はあくまで筆者自身がこれまでに抱いてきた感情や、同じく「非モテ」を自称する友人のエピソードなどから参照した内容の一部であり、特に男性学における議論などを参照したわけではないことに注意して頂きたい(今回は、なるべく個人的な内容として書いておきたいからである)。

恐らく「どれも当てはまらないが辛い」という人も珍しくないだろう。また、重要なのは、これらの苦しみには「きっかけ」となる被害経験があるという場合も珍しくなく、それこそが問題の本質であるというケースもあるということだ。

「ぼくらの非モテ研究会」を主催する西井開氏は、「非モテ」のきっかけとなる被害経験にはいじめやパワハラ、家庭内暴力など、当事者によって様々な出来事が存在し得ると指摘し、単に「モテないから苦しい」という考えを問題の本質とすることを避け、より本質的な苦しみを紐解くべく「非モテ」を次のように位置付けている。

「非モテ」とは疎外感や被害経験から始まり、それを補うように女性に執着し、その行為 の罪悪感と拒否された挫折から更なる自己否定を深めていくという、様々な出来事と感情が折り重なった現象であり(〈現象(phenomena)としての非モテ〉)、決して「モテない」という一要因から起こっているわけではない。

現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在――〈男〉というジェンダーのゆくえ. 青土社.

だが、いずれの場合も悩みの方向はあくまで自分自身に向くことになり、相手側=女性側の視点は欠けることになる。そしてこれらの悩みは、様々な外的要因によってより重いものへと変わっていくことが多い。

親族や職場の上司など様々な人物から「いい人はいないのか、いつになったら結婚するんだ」というメッセージを頻繁に浴び、街を歩けば容易にマッチングアプリの広告や「婚活」といった文字が目に入る。

インターネットを開けば恋愛絡みの情報や投稿、芸能人の結婚のニュースやそれを祝うコメントが大量に入ってくるし、そして「恋愛」に幸福を見出す娯楽作品は今もなお跡を絶たず、その中にはモテないことに悩んでいた主人公が、魅力的な異性のパートナーと出会い、人生が逆転していくという筋書きの作品も多い。

恐らく、完全に外部との交流を絶って自室に引きこもらなければこれらの外的要因によるプレッシャーから逃れるのは不可能だろう。そうして更に悩みの方向は自分自身を向くようになっていく。

やがて「非モテ」による自分自身に対する「悩み」が、自己防衛本能が働くなどで「怒り」へと変換された場合、事態はより悪化していく。先ほど挙げた感情を持っていたような人であれば、以下のような気持ちを持つようになるかもしれない。

・現代における「一般的な成功者」への憎悪

・「容姿 / 性格 / 職業 / 資産 / etc..」で恋愛対象を判断する人々に対する憎悪、あるいはその「判断される」という構造自体に対する不平等感

・自らが考える「理想的な男性像」の追求(それ自体に問題は無いかもしれないが、追求する方向によってはいわゆる「有害な男性性」の増強へと繋がっていく可能性がある)

・コミュニケーション能力が高いと感じる人々に対する偏見や憎悪

・「恋人がいる人物 = 充実した生活」という前提と、それに対する敵意

・過去の恋愛に対する(時には加害性を伴う)異常なまでの執着

etc…

念の為に書いておくが、「非モテ」に悩む人々の全員がこれらの感情を抱いているわけではない。とはいえ、このような感情自体は決して珍しいものではなく、私自身も上記のような感情を抱いてしまうことがある(私は2010年頃からtwitterを続けているが、その中には恐らくそういった感情が表れてしまっているツイートが存在するはずだ)。

そして、これもまたSNSなどのソーシャル・メディアが普及したことにより可視化され、例えばインセル思想などのようにコミュニティという規模で支持されるようになり、時には極めて偏った思考へと向かっていくことがある。

こうなってくると、もはや「フェミニズム」を敵視するケースへと発展していくことも珍しくない。彼らの中で「我々は女性に差別されている」という結論に辿り着いてしまったためである。そして、「非モテ」に悩んでいる私自身がその方向へと向かっていくという危険性もゼロではないのだ。

(少なくとも今の)自分がそうなっていないのは、冒頭で述べたようにかつてポップ・カルチャーを通して、疎外感を感じていたとしても自らを肯定して良いのだというメッセージや、人々は平等であるべきという言葉に共感を抱き、力をもらうという経験があったからだ。

だが、それは理想の世界と、生きづらさを抱えている現実の狭間で板挟みになっているという意味でもある。「女性の立場になって考えよう」などと言っておきながら、恋愛=女性に救済があると信じて / 信じさせられて、そこに依存している。

もしも更に年齢を重ね、より大きなプレッシャーを感じて耐えられなくなった時には、もしかしたら一線を超えてしまうかもしれない。そして、そういった人々の存在は決して珍しいものではないのではないかとも感じている。

だからこそ、まずはその生きづらさの要因を一つずつ丁寧に解体し、「非モテ」という言葉で覆ってしまった問題の本質を見つけに行く必要があるのではないだろうか。そして、やはりそのヒントもポップ・カルチャーの中に見出すことが出来るかもしれない。

「規範」を解体するポップカルチャー

「アイデンティティ政治」が定着した以降の現代では、これまでの長い歴史で築かれてきた様々な「規範」を解体していく傾向があるように感じられる。

例えば、2010年代後半にリル・ピープなどのラッパーが牽引した「エモ・ラップ」というムーブメントでは、多くの男性ラッパーが恋愛における弱々しい感情や、孤独、そして時には自殺願望を抱いてしまうこともあるといった生きづらさを率直に歌い上げたことで多くの人々の支持を集め、今なおマッチョイズムと結びつきの強いヒップホップ・カルチャーの中で「弱音を吐く男性」の姿を肯定した。

また、2000年代当時は「男らしくない」といった批判を受けていたリンキン・パークやマイ・ケミカル・ロマンスといった孤独や疎外感を歌っていたロックバンドが、彼らに影響を受けた後進のアーティストや、当時、彼らの音楽を聴いて救われたと語るファン(筆者もその一人だ)の手によって正当な評価を受けつつある。以前はためらわれる行為だった「男性が生きづらさを語るということ」自体が自然なものとして受け入れられつつあるのだ。

また、フェミニズム的な潮流がもたらした成果として、必ずしも結婚を人生のゴールであると捉えない、一人で生きるという選択を肯定する作品も近年では強く支持されるようになってきている(例. 映画『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』)。

日本国内においても、恋愛など一切気にせず元気でポジティブなオタク生活を過ごす日々を描いたエッセイ漫画「裸一貫! つづ井さん」(つづ井)や、理想的な孤独死へ向けて邁進する30代独身女性の姿を描いた漫画「ひとりでしにたい」(カレー沢薫/ドネリー美咲)といった作品が人気を博しており、そういった変化が起きているということは、少なからずシスヘテロ男性である自分にとっても「結婚」に対する比重の重さを軽減する効果があるように感じられるのだ。

そういった一つひとつの「規範」の解体が進むほどに、「非モテ」に悩む自分自身が少しずつ楽になっていくことを実感する。そうしていくことで、「非モテ」という言葉の影に隠れてしまっている「本当の問題」がよりクリアに見えてくるのではないだろうか。そうすれば、自分なりの社会との折り合いを付け方を見つけ、板挟みのような感覚を抱かずに力強く理想へ向けての歩みを進めていくことが出来るのではないだろうか。

これはあくまで単なる私個人が抱いている希望的観測にすぎないし、他の「非モテ」に悩む人々にとってのヒントには恐らくならないだろう。だが、あくまで自分自身を救済するために、今はそのように生きてみようと考えている。だからこそ、私自身もまた、ポップ・カルチャーから受けた力を元にしながら、自らを縛っている「規範」を解体する一人とならなければならないのだ。

執筆=ノイ村


視覚障害者への情報支援「Be My Eyes」(iOS、Android)

現在、多くのアプリが世に出回っていますが、その中には社会のバリアを軽減するようなものもあります。そういったアプリの中で、手軽にボランティアとして関われるものとして「Be My Eyes(ビーマイアイズ)」をご紹介いたします。

このアプリは、視覚的な情報サポートを必要としている視覚障害者と、音声通話ができる晴眼者(目が見える人)をつなぐアプリです。

メールアドレスがあれば登録できます。使用言語を設定し、アカウントを登録した後は通知を待つだけです。ポップアップ通知をタップ。


フェミニズムは明らかに日本国内の空気を変えたと感じる。

フェミニストとして表明する/しないに関わらず、女性をモノとしてしか見ていない、同じ人間として見ることのできない男性たち、そして男性優位社会への忌避感が強くなった。

では、そんな男性たちはフェミニズムによって何かが変わったのだろうか。

起きたのは変化ではなく変化への違和感、抵抗感だった。

女性蔑視に偏った男性たちは、フェミニズムの主張そのものに拒否反応を示し、これまで以上に女性への憎悪あるいは無関心へと、海に沈めた石のように深く潜っていった。

一方で女性たちの立場を知り、自分自身も変わっていかねばならないという姿勢を表明する男性たちもいる。そういう男性たちは自罰的になる傾向がある。

だが、そのアクションは女性たちの方を向いているのだろうか。これまでの自分の行動に対する罪の意識にとらわれ過ぎて、自分を罰するだけで留まってはいないだろうか。

フェミニズムに直面した男性たちの防衛本能

日本で生活してきた男性たちにとってはフェミニズムに急に直面させられている実感がある。ソーシャルメディアを通じて眼前につきつけられたものに困惑し、どう対処していいのかわからないというのが本音なのではないか。

男性、とりわけシスヘテロ男性たちが感じているものはおそらく「当惑」、そして「混乱」である。あるいは断罪されるのではないかという「不安」だ。

身に覚えのある/ないに関わらない過去の言動や肉体的な接触。自ら無意識に行った女性たちへの侮蔑。それが「過度に内省的な」男性たちを苦しめる。

正義感が強かったり、社会におけるモラル/規範に従って生活してきた男性ほど、女性がこれまで遭遇していた不寛容さに自分も与していた事実に対しての罪悪感が強まる。

女性をモノ/商品/トロフィーとしてきた心覚えが「原罪」を自覚したかのように強くのしかかってしまうのだろう。

自罰とは防衛本能から起きるものであり、思考を後退させかねない負の側面が大きい。罪悪感は人間を無力化してしまう。

それまでの自己を振り返って内省すること自体は重要だが、もっと重要なのは自分を責める事よりも社会のあり方を変えていくことだ。そして女性差別に限らず様々な差別が行われる局面で無視をせずに実声をあげてそれを批判することにある。

それはエゴか?差別を解消するための一歩か?

被差別者に対して「自分はこうすればいいと思った」「こうすることができる俺カッケェ」というエゴ、ナルシズムに浸って接するのではなく、差別に遭っている人間の立場にたって「どうすればその人が逃れられるか」「安心して日常に戻れるか」を考えて実践する。自分がしたいことと他人がして欲しいことには差があるのだと自覚するべきではないか。

「女性にも平等に配慮する社会を目指す」と公言する会社や学会の役員が全員「中高年の男性」である光景をよく目にするが、「フェミニズムについて考えよう/立ち上がろう」というイベントやコミュニティが男性たちだけで構成されてしまうことにも私は違和感を持つ。Choose Life Project「#変わる男たち」のイベントが発起した際に感じたのも「それ」だ。

そこにあるのは男性として女性側に承認、あるいは免罪してほしいというアピールではあるまいか。ホモソーシャルとまではいかないが、女性に好かれるためにシス男性が纏おうとする「フェミニズム」には料理をしたことのない人間の描く料理漫画のようなぎこちなさ/唐突さを感じる。

一人の「人間」として想像力をもって人を見る

「変わろう」としても人間がそれまで生きてきた経験/実践を超越して理想的な人間になれるはずはない。いつかどこかで差別をしてしまう瞬間もあるだろう。それが人間だ。

女性に対しての態度のみ改めていこうとする姿勢では、女性の感じる社会の不寛容さは解消されない。それは女性を人間として正面から見ないことと同義だからだ。

LGBTQA、様々な人種や生まれ育ちの違い、肉体や見た目に対する差別など、あらゆる差別に刮目しなければ、人権の平等さは存在しえない。

結局のところ、「女性」という視点でしか見ないうちはフェミニズムの目指すところには到達できない。あらゆる人間を「人間」として見れるようにならない限りは相互理解も対話も起こり得ずに「分断」と「断絶」だけが生まれる。

日本で人権やダイバーシティに関する価値観が進歩してからまだ間も無い。企業のコンプライアンスの中に組み込まれはしても、それは社会のコモンセンスとしてはまだ機能を果たしていない。

これが日本の文明社会の規範となるにはまだまだ時間がかかる。それでも少しづつ変わってきている。各個人が道徳規範の上で自分たちの思ったことを言うことができる時代のうちにまだ浅い人権に対しておのおのが根を張り、幹を育てていけるような社会にしていきたいと思う。

そのためには何からはじめればいいか。自分以外の人間を見下すのではなくどんな人間なのか想像していくことだ。レイモンド・チャンドラーの言葉を借りるが、「やさしくなければ生きていく資格はない」。

執筆=BATI
トップ画像=Unsplashより


「昭和歌謡」というテーマで書き連ねる前に断っておく。私は昭和歌謡マニアでもオタクでもレコードコレクターでもない。8年ほど前からギタリスト羽賀和貴(BARAMON,井手健介と母船など)と“duMo(デュモ)”というギターとヴォーカルのユニットで、昭和歌謡曲にアレンジを加えてカヴァーしたり、それ風のオリジナル曲を制作し、ステージで唄ってきただけの人間だ。

私たちのユニットは、YouTubeを見て日本の昭和歌謡曲を好きになった謎のロシア人二人組、という設定でやっており、なので、それぞれ仮装をして、所謂カタコトの日本語でMCをする、というキャラクターを演じている。その意図については後述する。

さて、幼少期から洋モノかぶれの両親の影響で、主にアメリカン・ポップスやR&Bを好んで聴いてた私は、あまり90年代J-Pop旋風に馴染めていなかった。そんな最中、宇多田ヒカル『Automatic』(1998年)の大ヒットによって、彼女の母親である藤圭子、という歌手を知った。

『新宿の女』(1969年)という藤圭子のデビュー曲……18歳になったばかりとは思えない歌唱である……は、男にフラれて酒場で飲んだくれるホステスの心情を唄ったものだ。

説明的でもない、少ない言葉数で失恋の哀しみにズブズブ深く入り込んでいくこの曲は、2021年、一聴だけではなんの共感も得られない内容であろうとは思う。しかし“駄目な男に棄てられた己の愚かさを疎む”『新宿の女』は単純に失恋のことを唄っているだけではないのだと考える。

“傷”を快楽に変容させ、共有する

63年続いたその「昭和」という期間を、第二次世界大戦以前、以後で大きく分けて話を進めたい。私は戦後復興から高度経済成長の終わりかけ、大体1950〜80年代前半の、自分が生まれるあたりまでに作られた日本の小説や映画、音楽に十代の頃から惹かれ続けている。

天皇を神だと信じ込まされ、ボロボロになっていった日本軍は勝利していると思い込まされ、それが1945年8月15日、敗戦の一夜にしてひっくり返った。まさに「この世はもうじき おしまいだ」といった心持ちだろう(野坂昭如『マリリン・モンロー・ノーリターン』(1971年)より)。

こうした時代背景を鑑みると、『新宿の女』からは国民国家の面をしただけの、一部の支配階級のみを向いた“日本”という駄目な国に、体よく使われ、棄てられた民衆の絶望、も裏に読み取れはしないだろうか。

戦争の傷跡がいまだ色濃かった時代を、単に“耐える”だけで生きていたわけではなかろう。どこかでその“耐える”を、「昭和歌謡」つまり大衆音楽は、マゾヒスティックな快楽に変容させ、作家、歌手、そして音楽を楽しむ人々、みなその”傷”を共有していたのではないか。

私は「権力」が大嫌いでロックやパンクに夢中になったが、それはあくまでイギリスやアメリカの歴史の産物であって、日本で流れているリアルタイムのロック風な流行歌には、そのようなメッセージを感じられるものは少なかった。

何故そんなふうに“お気楽”になってしまったのか、と考えると、先人たちの“平和”への血の滲むような想いが裏目にでた結果でもあったのではないかと思う。経済が回復するにつれ、徐々に「反権力」の思想は特権的で堅苦しいものになっていった。

広島で被爆した祖父や祖母の世代は戦争の話をあまりしたがらなかった。「余計なことを知らなくていい、好きなことを自由にやりなさい」と言ってくれていた。申し訳ないが、私はその優しさに、真正面から甘える事は出来ない(真正面で甘えているとも言えるが)。

八代亜紀『雨の慕情』 の複雑さ

昭和歌謡に興味を持ったもう一つのきっかけは、漫画家、高野文子のデビュー単行本『絶対安全剃刀』(1982年)に収録されている『うしろあたま』という短編だ。

女性の肉体を持つことに定まらぬ嫌悪感を持っている主人公が、異性からのシンプルな好意に混乱したとき、「心が忘れた あの人も 膝が重さを 覚えてる」という一節で始まる、八代亜紀の『雨の慕情』(1980年)が流れる。ご存知、阿久悠作詞の大ヒット曲。ラストで一番の歌詞が丸々モノローグとして引用されているのを読んで、なんてクールな表現だろうかと幼い私は非常に感動した。

繰り返すが、先の『新宿の女』と同様、「女性がひたすら苦境に耐える」という内容が昭和歌謡には非常に多い。『雨の慕情』の2番では、帰ってこない恋人を想ってひたすら料理を作り卓上にぎっしり並べるという狂気じみた光景が唄われており、現在、これは色々な意味で目も当てられない描写である。阿久悠という男性が「イイ女」はこのような行動を取るべきだと期待している!と腐すのは簡単であるが、少々待っていただきたい。

八代亜紀といえば『雨の慕情』と『舟唄』(1979年)。『舟唄』もまた阿久悠の作詞で、リリースされた時も近く、この二曲は双子のような関係にある、とも言われている。

八代にとっての初の所謂“男歌”(男性視点で唄われる曲)「お酒はぬるめの 燗がいい 肴はあぶった イカでいい 女は無口な ひとがいい 灯りはぼんやり ともりゃいい」……『雨の慕情』よ、男性はイカでいいと言っている。手料理をそんなに並べるな、引かれるぞ……、ということではなく、ここにあるのは「阿久悠」という男の「美学」であり、なので、はっきり言ってどちらの曲の歌詞も「男性」の視点なのである。これを、あの妖艶な笑みをたたえた八代亜紀が唄うことで立ち現れるものは、歌そのものに性別はないはずなのだ、ということなのである。

それでも観客は“女性が唄っている”のだから“女性の心情である”と錯覚してしまう。ここをうまく利用したのが、『うしろあたま』なのだ。

「私のいい人 つれて来い」をどう読むか

“受けいれる”構造を持つ女性の肉体に嫌悪感を持つ、というのは、思春期の女性にとってそう珍しいことではない(背景には性別違和や、社会のミソジニーへの反発など、様々なものがあるだろう)。そこに、このじっとりとした心情を敢えてぶつけることによって「私のいい人 つれて来い」のリフレインの「私のいい人」が、異性の恋人という具体的な他者ではなく“自分にしっくりくる肉体”を指している、という新たな見方もできるように感じたのだ。見事な音楽の使い方である。

単純に、異性に親切にされたことで主人公の凝った心が少し緩む、という読み方も出来るし、様々な解釈が可能だが、それにしても当時この漫画を読んだ”ニュー・ウェーブ”な若者たちには、どちらかというと『雨の慕情』の「昭和歌謡」的世界観はもう古臭く感じていただろうと推測する。だからこそフックになるのだ。

そして阿久悠、という男性は、受け入れる構造を持つ女性の肉体に対して、ある種の羨ましさを持っていたのではないかと思う。「憧れ」とは、自分のコンプレックスを埋める信仰であり、よって、対象は過剰なまでに美化される場合がある。

美しい言葉でその「憧れ」を掘り出した阿久悠は、だから稀代の作詞家として現在にも名を残す存在となった。昭和歌謡で唄われる「耐える女」の正体は、女の肉体にその身をくるんだ、未練がましく、しみったれた「男性」の可能性もあるのではないか。

美しい日本語で極端にデフォルメされた「男」と「女」をどう唄うか、聴くかによってある種のメタモルフォーゼの可能性を感じていて、それが「昭和歌謡」について思考と実践を繰り返す理由となっている。『新宿の女』をduMoで唄うたびに、いまだ“しっくりくる肉体”を持っていない私は「私が男になれたなら 私は女を捨てないわ」という出だしの一節に、特別な感情をもつ。

私は“男”になりたかった。“少女”とみなされたくなかった。“少年”になって、パンクロックをやることを夢想し始めた頃に出会ったこの曲は、はっきりと「私が男になれたなら」という懐かしくも消えない欲望を引き出してくれる。“耐える女”ではない私が、「昭和歌謡」の新たな面を照らせるのではないかと、思うのである。

「こんなので騒がれるようじゃ…」への反発

「現場を追い詰めるような行程がある方が純粋で素晴らしい作品ができるんだよ。女殴ったくらいで騒がれるようじゃ、もうつまんないものしかできないよね。」

戦後の文化を熱く語ると、リアルタイムでそれらを楽しんでいた世代(多くは男性)は「キミもそう思うでしょ?」を言外に匂わせながら、特に悪意のある風もなく言った。しかし、こうした古参のファンたちへの反発こそが、謎のロシア人二人組という設定の背景にある。

「昭和歌謡」にはノンネイティブの日本語話者が日本語で唄う“キッチュさ”が魅力とされるものがあり、そのオマージュの意味合いもある。しかし、同時に日本人が現代に「昭和歌謡」を演奏するにあたって、過去の日本の社会構造すらも礼賛するような意図が含まれてしまうのを避けるためのギミックでもあった。

オリジナル曲も、昭和歌謡曲のフォーマットは踏まえつつ、差別的な意味を持たせない様に気をつけているつもりだ。「コスプレはやりたくない。」という私の意見をギタリストの羽賀はよく理解してくれていた。

しかし結成から8年の歳月が経って、例えばK-Popのアーティストたちが日本の市場向けに日本語をわざわざ喋らされ、それがファンに無邪気に消費される様子などを見るだに、この「外国人風キャラクター」という設定にも限界が来ているな、と最近は反省もしている。

歌は世につれ、世は歌につれ。世も歌も、所詮は人のつくりしもの。人が進化しなければ、世も歌も進化しないのだと、身をもって感じる昨今である。

・・・

筆者のニイマリコさんのユニット「duMo」が近日ライブに出演予定です。


※本記事は漫画『大奥』の内容に触れております。ご了承の上、記事をお読み下さい。

2021年2月26日に完結した、よしながふみ著『大奥』は、わたしがフェミニズムを知らなかった16年前に始まった連載だ。

私が読み始めたのは10年前で、当時は特にフェミニズムリーディング*をしようと思って読んでいたわけではない。わたしは高校生の頃、日本史研究会なるものに所属しており歴史への関心や知識はそれなりにあったが、歴史とフェミニズムがこんなかたちで交わっているとは想像もしていなかった。フェミニズムについて考えるようになって、初めてこの作品の真髄を見出せた気がしてならない。

著者のよしながふみは過去のインタビューでこう語っている。

私は男性だから女性だからということよりも、政権を血で継いでいく限り、どの将軍にとっても大奥は悲しい場所だということを描きたかったんです。

まさに当時の社会構造と政(まつりごと)の仕組みに翻弄された人々の人生の無常さを描き切っている。

男女逆転の設定が可視化するもの

実写ドラマや映画にもなったことで、作品名やなんとなくのストーリーラインは知っている人も多いと思う。“男女逆転のSF大河ロマン” と何やら設定がてんこ盛りなキャッチコピーがつけられていた。

『大奥』は性差だけでなくあらゆる格差や不平等からの解放を目指し、世の安寧を願った人たちの執念の物語。“男女逆転” の設定は、それによってジェンダーや政治の問題が明確に浮き彫りになり、物語を通して強く訴えかけてくる点で重要なのだ。

性差は、性格、社会的/政治的関心、認知能力など、実際には性別と無関係な事象を説明するために誇張されることが多い。『大奥』はこの言説をくっきりと浮かび上がらせていた。

『大奥』から見えるジェンダーバイアス

まず赤面疱瘡の流行により男性が外仕事をできなくなった際、女性たちは家事や育児に加えて外仕事も行うようになり、それまで男性が担ってきた仕事も男性が従事する必然性がない可能性を提示する。また、女性が将軍を含む重役を担うようになったことで、逆に男性は政治の場から退けられ社会的権力が弱体化した。

これらの例は、割り当てられた社会的役割が性別へのアンコンシャスバイアスを生み出すのではないかと示唆している。

このように男女逆転の設定は、社会的役割をひっくり返すことで現実世界の歪みをより見えやすくする。しかし、一方でこの世界では現実世界と同様のジェンダーバイアスが残っていることも示唆される。

まずは家督を継ぐ際には女性であっても男名で届け出る習わしについて徳川吉宗が加納久通に問いかけるシーンである。

「その(女名では) ”しっくりこない” という我らの感じ方そのものに事の本質があるのやもしれん」

なぜ家督を継ぐのが女性だと “しっくりこない” と感じるのか。それはジェンダーロールに対して刷り込まれたバイアスが作用していると言えよう。

また『大奥』では女性蔑視の発言も繰り返し散見された。

桂昌院「女の子は殿方に気に入られて子供を産まなければ、そのためにはきつい目つきになるような過度な読書は駄目だ」

西郷隆盛「別に僕は女より男が偉いと言ってるわけでない。ただ男には男の、女には女の役割があるはず。女に政はできない」

単に社会的役割がひっくり返っただけでは差別や偏見が解消されないのは、その他の要因が複雑に絡み合い作用しているからである。これは後述するインターセクショナリティとも関連するが、どうもこれらの発言は性別を主軸に据えることで論点が単純化されすぎているのではないか。

例えば西郷隆盛の主張においては、「政ができない」とされるその他のファクターが文脈から消し去られているのが問題であると考える。政が上手く機能していない理由には、武家制度や社会階級の構造的問題が深く関係しているだろう。ここで目を向ける先をジェンダーに絞ってしまうのは非常に危険だ。

また、徳川治済が息子の徳川家斉に向かって放ったこの一言は鮮烈である。

「男がそういう政にかかわる事をちまちまこの母に意見せずとも良いと何度申したら分かるのじゃ。(中略)男など女がいなければこの世に生まれ出る事もできないではないか」

これを読んだ男性はどのように感じただろうか。憤りを覚えただろうか。ここでは女性が男性に差別発言をするシーンが、男女逆転の設定により際立っている。女性が男性に対して権威的である場合、このような事態に陥ると言える。

これを逆説的に考えると、現実における男性がいかに女性を抑圧しているかがイメージしやすいだろう。つまり、性別を軸にした権力の非対称性や歪さこそが根本的問題であることが分かる。

描かれた多様な人間関係

さらに、『大奥』では多様な人間関係が非常に丁寧に描かれている点にも触れておきたい。男女間はもちろん、同性同士の性的関係、シスターフッド、誰とも恋愛も結婚もしない人も登場する。

今回は徳川家茂と和宮の関係性をピックアップして紐解いていく。家茂と和宮は、女性同士、正式な婚姻関係にあらず、お互いに性欲を抱かず、それでも養子をもらい、共に生きていこうとした。

ジェンダーや血縁や階級などの属性を全て取り払って、個人と個人が信頼で結ばれた結果だ。

また、二人のあいだだけではなく、子も含めた家族のあり方に対して柔軟な考えを提示した。

家茂は「人の親になるのにその子の父と母でなくてはならない訳では決してない」ことをはっきり理解し、その価値観を和宮と共有している。「まことに信頼に足る人物ならば夫婦でなくても二人で人の子の親になっても良い」と。血を分けなくとも家族は成しうることを理解した家茂は、長年徳川家を蝕んできた血族の呪いから自らを解放した。

また、本作品はインターセクショナリティをも物語に緻密に織り込んでいる点でも評価されるべきだろう。人種差別、性暴力、家庭内暴力、血縁関係、階級、障害の有無、ルッキズムなどが、社会や個人に及ぼす影響の大きさ。そしてこれらに対して登場人物がどう立ち向かったのか。

インターセクショナリティは現代のフェミニズムを考え、実践する上で欠かせない視点である。この作品からは差別構造はジェンダー以外にもさまざまな要素と交差しながら形成されていることがリアルに伝わってくる。

徳川家重は障害により言語が不明瞭であったため、周囲から差別や辱めを受ける描写が見られる。また、陰間出身の瀧山は「勉強など無駄」「年齢を重ねれば無用」「一生ここから出られない」と言われながら育った。(阿部正弘との出会いで彼の人生は一変するが……)江島はルッキズムに悩まされ、自分には身体的に魅力がないという呪いを背負っていた。それは彼の人間関係にも多大に影響を及ぼしていた。

これらのジェンダー以外の要素もきちんと掬い上げ、物語の中に丁寧に織り込んでいたからこそ、『大奥』はより深みを増したのだと思う。

わたしたちの生きるこれから

この物語はフィクションだが、現実との境目が分からなくなるほどリアルで迫るものがあり、わたしたちは今一度社会に根強く残るジェンダー問題について考える必要が絶対的にあると強く感じた。政治、仕事、家族などの仕組みについても、一人ひとりが今一度再考するべきではないだろうか。作中でハッとするような画期的な提言やアイデアが出てくるたびに、今の社会はまだまだ未達であることを痛感する。

しかし憂う事柄が山積する一方で、物語の上でとはいえ、歴史の上で世と人が目まぐるしく変わりゆく様を見ることは、今を生きるわたしたちも差別や抑圧と戦い、現状を変えていけるはずという希望を思い出させてくれる。

最後に、よしながふみが『大奥』という作品を通じて生きるということについて述べていると私が解釈した箇所を抜粋して終わりたい。これは性別を問わない、全ての人の人生観に関する鋭い見識である。

右衛門佐「生きるという事は、女と男という事は、ただ女の腹に種を付け子孫を残し家の血を繋いでいく事ではありますまい」

『大奥』と出会うことは、現実社会にも同様に散りばめられているジェンダーを始めとする格差や抑圧の構造的問題をより立体的に理解し、そこに向き合い戦っていくための礎の一つとなるのではないか。今までの考え方を覆し、信条を揺るがし、新たな行動を起こすためのきっかけはあちらこちらにあるものだ。

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注釈

*フェミニズムリーディング:フェミニズムの観点から作品を読解すること

執筆=四角
トップ画像=pixabayより


『キングコング・セオリー』の第1 章『バッド・ガールズ』では次のような「女」たちがあげられる。

「私はケイト・モスというより、キングコングみたいな女だ。誰も妻にしたり、一緒に子どもをつくったりしないタイプの女。常に自分自身でありすぎる女。(中略)売れ残りの女、まともじゃない女、スキンヘッドの女、服の着方を知らない女、体臭を気にしている女、歯がボロボロの女、どうすればいいのかわからない女、男からプレゼントをもらえない女、誰とでもやる女、太ったヤリマン…」

私が高校生の頃は「女子力」というワードが一大トレンドだった。

見た目を綺麗に整えメイクなどの研究を怠らないこと、痩せるために努力すること、周りに気を使うこと、料理や掃除などの家事が得意であること、それらはすべて「女子力が高い」という言葉で評価され、男性にモテるとされ、身に着けた方が良いとテレビや雑誌では言われていた。

2018年にも「ちょうどいいブス」という言葉が高まりをみせていた。

「ブス」はそのままでいてはヒエラルキーの最下層だが、気づかいや見た目を整える努力などの「分をわきまえた」行動を取ることでそこから抜け出せる、つまり男性に選ばれる「ちょうどいいブス」になれるというものだった。

「女子力」「ちょうどいいブス」が耳目を集める時代から、徐々に移り変わりつつある。

雑誌やテレビでも「美の多様性」などの言葉が踊り、「ありのままの自分を愛そう」というエンパワメントカルチャーが台頭したり、ジェンダー平等がゴールのひとつとしてあげられる「SDGs」もトレンドとなっている。

しかしそこにデパントがあげたような女性たちの居場所はあるのだろうか。

利用されるフェミニズム

最近「フェムテック」という言葉を頻繁に目にする。それらは生理に関するものやプレジャーグッズ、肌質改善や不妊治療のためのサプリメントなど多岐にわたるものを指し、「女性の生きづらさを解消する」や「女性の自己肯定感をあげる」「セルフラブ」などのエンパワメント的キャッチコピーと共にファッション・カルチャー雑誌でも2020年以降頻繁に記事化されている。

もちろん女性の身体のこと、とりわけ健康や性のことが社会の中で置き去りにされてきた現実があるのは確かだ。生理期間が過ごしやすくなることは、生理のある身体に生まれた人々の暮らしの向上や、災害時にも役に立つだろう。肌の悩みをどうしても解消したい人もいるだろう。

しかし、これらの製品を使えば「女性の生きづらさ」は解消されるのだろうか?

女性たちを生きづらくさせ、自己肯定感を下げているのは、生理について公然と話し合うことを恥ずかしく思わせるような空気や、男性に選ばれて結婚し子どもを産むことを“普通”とする規範意識、より美しくあるべきというルッキズムなどの、社会に満ちる偏見の数々なのではないか。

そこから目をそらし、「生きづらさを解消する」という謳い文句で自分自身の身体や心のメンテナンス品を安くはない値段で売ることは、ラッピングを変えた新しい「女性」のイメージを売っているのと同義だ。つまりそれを購入するだけの財力があり、セルフケアにより心身ともに健康で、男性と対等に渡り合うこともできるが、彼らに自分を選ばせる美しさも磨くことを忘れない女性。

そのイメージから漏れた人々は再び透明化され、その生きづらさには変わらずスポットは当たらない。結局のところ大多数の女性は相変わらず「その他大勢」のままだ。

だからこそ、『キングコング・セオリー』は多くの共感を呼んだのかもしれない。

資本主義に利用されたフェミニズムのエンパワメントに居心地の悪さを感じる「その他大勢」であり、「女らしさの最下層民(プロレタリア)」(原文ママ)の側からの怒りが、そこには詰まっている。

「女」でいることは素晴らしくない

『キングコング・セオリー』はフランスで作家や映画監督などマルチな活躍を見せる女性作家、ヴィルジニー・デパントが2006年に刊行した自伝的フェミニズムエッセイだ。

レイプ被害者であり、売春経験があり、女性の名前で小説を発表したことがあり、ポルノ映画を撮ったことのあるデパントはユーモアと毒っ気のある口調で、しかしはっきりとそれらの属性がさらされる偏見やスティグマを批判する。「女らしさ」「男らしさ」という膜で覆われ隠された、見えざる人々を可視化する。

いわゆる「良妻賢母」のような「女らしさ」にも、エンパワメントの形をとって変化した現代の「女らしさ」にも平等にデパントは中指を立てる。その姿勢は資本主義社会によって対象を狭められた「女性活躍」「女性の自己肯定感を上げる」よりもずっとインクルーシブなものではないだろうか。

デパントはモニク・ティウィッグの「今日、私たちはまたしても罠に囚われている。おなじみの『女でいるってすばらしい』の袋小路に」を引用しつつ、更にこう続ける。

「この言葉は、中年の男たちが、私たちについてやたら言いたがる。彼らは、『女でいるってすばらしい』の微妙なロジックについては黙っている。ここでの女とは、若くて瘦せていて男を喜ばせることのできる女を指す。そういう女でなければ、すばらしいことなんてなにもない。二重の意味で女は疎外されている。」

つい最近、報道ステーションが若い女性が「良い化粧水」と「消費税増税」を並列に取り上げニュースにも関心のある様子を見せるCMを打ち、批判を浴びた。

森喜朗氏が女性秘書に対して投げかけた「女性というにはあまりにもお年」という発言も記憶に新しい。

「女性」でいることに素晴らしさなんてない。健康や見た目のメンテナンス品が充実していようが、「セルフラブ」と言われようが、こんなにも狭量な「女性」に対するイメージがはびこる社会で生きづらいのは当たり前だ。この生きづらさは、傷つけられた自己肯定感は、けして醜いせいでも頭が悪いせいでも男性に選ばれないからでもないというデパントのメッセージもまた、欠かせないエンパワメントであるはずだ。

執筆=Kobin
トップ画像=pixabayより


※本記事は『あのこは貴族』映画および原作の内容に触れております。ご了承の上、記事をお読みください。

岨手由貴子監督作「あのこは貴族」を鑑賞後、ひたひたと胸に満ちる多幸感に打ち震えていた。ついにやってくれた。わたしたちが生きる時代に、わたしたちが生きる国で、女性作家の手によって軽やかなシスターフッドの物語が描かれ、そしてその物語が女性映画監督の手によって映像化されたのだ。それも、緻密に考え抜かれた脚本と演出によって。

観客の先入観を逆手に取った、連帯の物語

「東京の箱入り娘が、自分の婚約者である御曹司とただならぬ関係にある地方出身の平民女子と相対する」というあらすじを読めば、まだまだ多くの受け取り手が思うことだろう、「ああ、御曹司を巡る三角関係、女同士のバトルね」と。そして、ある人は「キャットファイトが見られるぞ」とわくわくし、またある人は「またそのパターンか」とうんざりする。

女と女の敵対は、まるでそれが女の生まれつきの性質であるかのように、エンターテイメントとして消費されてきた。「あのこは貴族」のこの典型的とも言えるあらすじは、使い古された「いつものパターン」を想起させるに充分だ。

ところがどっこいこの作品は、まさに受け取り手のこの先入観をミスリードに利用し、そして軽やかに吹き飛ばして見せる。

「世の中には、女同士を分断する価値観みたいなものが、あまりにも普通にまかり通っている」 — — 。社会への真っ当な怒りとして提示される台詞のとおり、「東京の箱入り娘」榛原華子と、「地方出身の平民女子」時岡美紀は、決して穏やかでないきっかけで邂逅を果たすものの、いがみ合うでもなく、かといって意気投合して親友になるわけでもない。しかし、互いを見つけたあとの二人は、自分の人生を見るときに、確かに新たな視座を得ている。ここで御曹司・青木幸一郎は、二人の女性を引き合わせる装置に過ぎない。

美紀と出会わなければ、おそらく華子は幸一郎と結婚したあとの幽閉生活も、そういうものだと自分に言い聞かせ、受け入れてしまっていただろう(結婚後の華子が高級マンションにぽつねんと取り残された姿は、同じく2021年公開作で「格差婚の負い目もあり、カゴの鳥生活を余儀なくされる女性が、思いもよらぬ方法で主体性を取り戻す」物語である「Swallow/スワロウ」をあまりにも彷彿とさせる)。

そして美紀もまた華子と相対したことで、都合のいい女でいることから吹っ切れて、起業という道を選ぶことができたのだろう。女たちは、「対立していてほしい」という期待に応える必要など、ないのだ。

華子と美紀が邂逅する時間は、実はほんのわずかだ。それでも、互いの人生に決定的な影響をもたらす。わたしは、こういう多様なシスターフッドが見たかった。友達か敵かのどちらかでなくていい。その間には無数のグラデーションがあるはずだから。もう二度と出会わないかもしれなくても、道の反対側の見知らぬ二人組から手を振られて振り返したり、夜のベランダに並んでビルの影で欠けた東京タワーを見ながら棒アイスをかじる、そういうゆるやかな連帯があっていい。

「動」の原作、「静」の映画

原作のファンだったわたしは、正直に言えば、映画化の話を聞いて手放しに期待してばかりもいられなかった。華子役に門脇麦、美紀役に水原希子というキャスティングも、個人的には「逆では?」という違和感があった。しかし蓋を開けてみれば、門脇麦は、お膳立てされるがままふわふわと主体性なく「良い子」として生きてきたナイーブな上品さ、そして富裕層の狭い世界で培われたナチュラルボーン選民思想を体現した「お嬢様」そのものだった。

上京組のど根性娘・美紀を演じる水原希子の演技にも驚かされた。華子と対峙する時の、虚勢を張りつつ幼さを感じるほどに警戒の現れた表情への変化。父や元同級生から「俺の考える女の役割」を屈託なく押しつけられた時の、呆れてむっとしつつ、かすかに傷ついた視線。ふるさとの町に降り立ち、同級生の中でも明らかに「垢抜けた」美紀は、なるほど浮いている。しかし、この「都会の女」然とした立ち振る舞いこそ、まさに人一倍努力家の美紀が必死で身につけた賜物であり、同時に「もうここに自分の居場所はない」と悟る、自由と引き換えの孤高の証でもある。

キャスティングだけではない。岨手由貴子監督の脚本からは、本作を単なる原作のダイジェストに留めず映像作品として構築しようとする明確な意図を感じた。原作での結婚式の場面は「女性たちの結託によって幸一郎の鼻を明かす」という展開がケレン味たっぷりに描かれ、痛快なクライマックスとなる。しかし映画版では、結婚式当日の描写そのものが、ほぼ完全に省略されている。わたしは原作のこの場面が大好きだが、同時に、これは文字だから効果的なのであって、映像になるとこの展開自体のインパクトが大きくなりすぎるだろうということも理解できた。

披露宴という催しの白々しさを強調し、華やかさと裏腹の虚しさをこれでもかと見せつける原作が「動」なら、あれだけ華子が必死で目指してきた結婚式自体を「描かない」、正確に言えば、写真撮影の様子と、現像され額縁に収まった写真「だけ」を描くことで、それが華子にとっては単に「一族の体裁を保った証左」以上のイベントにならなかったことを表す映画版は「静」だ。

展開自体の起伏を強調する代わりに、本作では登場人物の状況や心情を理解するための情報は、全編に散りばめられたアイテムやモチーフの反復から、観客がそれぞれに暗示や示唆として拾い上げていけるようになっている。一見静かな場面でも、水面下では常に登場人物の感情や意思がさざめいているのだ。

たとえば、華子の見合い相手の、体に合っていないスーツの違和感。ここで何かあると思わせてからの、盗撮。「見る側」としての意識しか持たず、自分も見られる側であるという意識の欠落が、スーツの仕立てで示唆され、体に合った上等なスーツ姿の幸一郎との対比に繋がる。幸一郎に呼ばれて参加したパーティーでの、美紀のパンツスタイルも見逃せない。求められる役割がホステスとしてのそれであることをわかっていつつ、こういう場で美紀はドレスでなくパンツスタイルを選ぶ女なのだ。身につける衣装がこれほど人格を雄弁に語る。映像から受け取れる情報の豊かさが快感だった。

とりわけ印象深いのが、移動手段の描き方だ。富裕層の世界だけを見て育ち、親の指示通りに生きる華子は、物語冒頭では目的地まで躊躇なくタクシーで運ばれ、窓の外には無関心。それが後半では、自転車で疾走する美紀を見つけてタクシーを停め、ついに自分の意思で扉を開け、降りる。そして歩いたことのなかった家までの道を自分の足で歩く。最後には自らハンドルを握り、「三輪車に乗る友達の背中を押す」という描写から、未熟ながら友達を支えて自立しようとする華子の変化が表現される。

美紀の移動手段が自転車であることも重要だ。自分の足でペダルを漕いで、生き馬の目を抜く東京の街を、美紀はずっと一人で走り続けてきたのだ。一緒に上京した友人の里英が、「ダッサ!」と笑いながら美紀とニケツで自転車にまたがる場面は、思わず胸が熱くなった。ここで二人は交互にハンドルを握り、美紀は里英に背中を預ける。ダサくても、貴族でなくても、美紀には里英がいて、里英には美紀がいる。ジェンダーギャップ121位の日本を颯爽と駆けるのは、ニケツでチャリに跨る地方出身の女の子たちなのだ。

階級というシビアなグラデーションの可視化

階級を超えたシスターフッドの物語とはいえ、作中で美紀と華子が階級を「克服」するようなカタルシスは訪れない。華子はかなり一方的に美紀に助けてもらっているし、美紀と同郷の里英は東京の富裕層の女の子たちの仲間に入ろうと「うちは父が経営者で」と懸命にアピールするも、あえなく流されてしまう。

華子と美紀が出会ったとき、美紀はカトラリーを落とし反射的に拾おうとするが、華子はまったく身をかがめる素振りも見せず、給仕に拾うよう指示をする。身についたささやかな仕草一つで、二人が異なる世界で生きてきて、そしてこれからもそのままであろうことが暗示される。そして暗示のとおり、束の間の交流のあと、二人はそれぞれ元からの友人とパートナーを組む。

何世代も続いてきた棲み分けは、そう簡単には崩れない。美紀と里英だって決して「平民代表」というわけではなく、地元に残った大半の女の子たちからすれば、東京の私大へ進学するだけの経済的サポートを得ている時点で、棲み分けされた「別階層」なのだろう。格差にはグラデーションがあり、自分が突きつけられるまで気づかないのだ。

「あのこは貴族」が面白いのは、階級のことなんて意識して生きてこなかった華子が、上の階級である幸一郎との結婚を通して初めて、「下」である自分を意識するところだ。

ポン・ジュノ監督作「パラサイト 半地下の家族」では、住居の物理的な高低差で視覚的に格差を描いていたが、物語の舞台となる富豪の住居は、山の手とはいえ坂の中腹に位置しており、「まだ上がある」ことを示唆していた。榛原家も日本の富裕層の中ではあくまでも坂の中腹、あるいはもしかすると、中腹にも届かない地位に過ぎないのだろう。

興信所を「普通じゃない?」と言い放つ幸一郎のかたわらで内心ギョッとする華子はこの瞬間、5000円のアフタヌーンティーを気軽に利用する同窓生を前にギョッとする美紀と同じ立場にある。「あのこ」というのは、美紀をはじめとした一般庶民から見た華子を指す言葉であると同時に、華子から見た幸一郎を指す言葉にもなる。

映画版では特に幸一郎を指す意味合いが大きくなっていると見え、それは原作の英語版タイトルが「Tokyo Noble Girl」であるのに対し、映画版では「Aristocrats」という、性別も人数も規定しないタイトルになっているところからも窺える。

「役割の容れ物」から脱し、人間らしく生きること

そう、この青木幸一郎がくせ者だ。美紀からノートを借りて単位を取得するという搾取を学生時代から屈託なく働く、薄情なボンボンの浮気男なんて、普段なら憎しみ一択になるはずで、ここがホルガ村ならクマに詰め込んでお焚き上げにするところだ。ところが、高良健吾演じるこの空虚な男に、わたしは不思議と憐れみを覚えてしまった。

「親父には似たくない」とこぼす幸一郎は、「家の存続」のためだけに存在する空虚さを自覚してしまっており、彼の人生は使命感と諦観に覆われている。家のため国のため、個を消して全体のために駒になる、夢も人間性も持つことを許されていない「容れ物」こそ「男性性」であり、その担い手の末席にいるのが幸一郎である。

「本当はそんなイヤなやつじゃないと思う」という美紀の幸一郎評は、しかし「イヤなやつ」としてしか生きることのできない幸一郎の哀切を浮かび上がらせる。いや、こういう人物が空虚なままに政治家として国を牛耳ろうとしている以上、わたしは彼に同情を寄せる余地などないはずなのだが。ベランダで土の手触りを求めては「華子もどうせ、自分と結婚したのはそうしなければならなかったからだろう」とこぼす、ここまで恵まれた環境に身を置きながら、この自尊心の低さはなんなのだろう。

一歩先に「押し着せの役割」の容れ物から抜け出し、個人として歩みはじめた華子と再会した幸一郎が、ボーイズクラブのようなスーツ姿の男たちに取り囲まれ「先生」と呼ばれて踵を返す背中にはどうしても、がんじがらめの息苦しさから逃れられない滑稽さを見てしまう。システムのコアに近いところに生まれるほど、そこから抜け出すのは容易ではなく、また抜け出すうまみもないのだろう。

ラストシーン、視覚的高低差を利用しつつ、下りかけた階段の途中から見上げる華子と、手すりに隔てられた上階の廓のような空間で男たちに取り囲まれた幸一郎は、ただ見つめ合う。華子の正面顔にカメラが寄るラストカットは、華子が見合い写真を撮影するカメラを見つめ、「あのこは貴族」というタイトルが現れるオープニングの反復で、円環構造になっている。

しかし「一族から期待されるとおりに結婚をする」役割を果たすため、男性に選ばれるための正面顔だったオープニングと比べて、ラストカットの華子の眼差しからは、美紀から受け取った自我という松明を幸一郎にも渡そうとするような、祈りにも似た力強さを感じた。女たちは一足早く抜け出して、ニケツで駆け出した。男たちよ、あなたはどうする。

「あのこは貴族」は、社会階層や生まれた場所、属性ごとに分断され、対立構造に押し込められてきた女たちの物語だ。彼女たちの人生がほんの束の間交差し、それぞれが求められる役割から少しだけ逸脱して、人間らしく生きるために一歩踏み出す、希望と連帯の物語だ。2021年の日本で、この映画が封切られたことの意義深さを噛みしめる。

執筆=KellyPaaBio
トップ画像=Unsplashより


Unsplashより

少し前、あるtwitterユーザーの「合コンで使えるApex用語」という投稿がゲームApex Legends(以下、Apex)の日本のファンコミュニティを中心に大きな話題となった。

現在は該当のツイートは削除されているため詳しくは触れないが、Apexにおける用語を”隠語”として活用し、飲み屋での光景や行為を相手の女性にバレないように共有しようという内容である。それはいわゆる「飲み会あるある」的なものだったが、一部の項目に「女性を泥酔させて、性行為に持ち込もうとする」ような内容が存在していたことで、該当ツイートには多くの批判意見も寄せられていた。

こういった議論が生じた際によく出てくるのは「あくまでジョークであって、別に本気で言っているわけではない」という反応である。実際にこのツイートについても同様の擁護意見を多く確認することが出来た。

正直なところ、このような光景は(Apexに限らず)様々なファンコミュニティにおいて決して珍しいものではなく、特にコンテンツ製作者側が対応することなく時の流れと共に忘れ去られるケースも非常に多い。だが、今回の場合はとある人物の登場によって、その流れに明確な終止符が打たれた。

Apexの開発者であり、リードデザイナーを務めるChin Xiang Chong氏が、該当のツイートに対する引用リツイートで「やめてください。弊社にとっても迷惑です。」というメッセージを投稿したのである。最終的に投稿者は謝罪し、ツイートを削除するに至っている。

『Apex Legends』とジェンダー・バランス

『Apex Legends』は、アメリカ・ロサンゼルスに本社を構えるRespawn Entertainmentによって開発されている基本プレイ無料のオンライン・ゲームである。

ジャンルとしてはいわゆるFPS(ファースト・パーソン・シューター。一人称視点のシューティングゲーム)で、最大60人という大人数で同じフィールドに飛び降り、最後まで撃たれ死ぬことなく生き延びれば勝利という、最近流行の「バトルロイヤル」タイプの作品である。類似のタイトルとしては、『PlayerUnknown’s Battlegrounds』(通称『PUBG』)や『Fortnite』が挙げられるだろう。

上記のタイトルとの大きな違いは、「必ず2人または3人のチームで戦う必要がある」、そして「固有の能力を持つキャラクターを選択して戦う」という点にある。特に後者におけるキャラクターたち、通称「レジェンド」はApexを象徴する存在となっており、日々、世界中のファンがお気に入りのレジェンドのファンアートを投稿している。

そして、本作の特徴として挙げられるのが、このレジェンドの描き方における多様性への意識である。本稿ではその中でもジェンダーに対する姿勢を取り上げたい。

まずは、現在16名からなるレジェンドのジェンダー比率を見てみると、男性キャラ : 8名(うち2名はロボット) / 女性キャラ : 7名 / ノンバイナリー : 1名と、極端に偏ることのないバランスとなっている(あくまで数字上のこととはいえ、前提として重要なポイントだ)。

そして、レジェンドのジェンダー表現についても、「らしさ」を強調するような描写は少なく、むしろ、ステレオタイプを否定するかのように、部隊を率いるリーダー的存在の女性キャラ(バンガロール)もいれば、時折精神的な不安を口に出してしまう男性キャラ(ミラージュ)も存在する。男性キャラが極端なマッチョイズムに走ることもなければ、女性キャラに男性目線の性的消費を感じさせるデザインや表現が割り当てられることもない。

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