Sisterlee(シスターリー)は、インターネット上の様々な趣味のコミュニティでフェミニズムが話題になる状況に焦点を当てたいと考え、編集人の妹が個人で立ち上げたメディアです(開設当初の媒体説明はこちらから)。

現在はきな粉、kobin、工場、たぬきが編集部に加わり、5人で運営しております。2020年12月12日にnoteからMediumにサイトを移転しました(移転の理由はこちらから)。今後は新規記事をMediumに掲載しつつ、旧サイトの記事もときどきMediumにアップしていきます。noteはアーカイブとして残す予定です。

私たち5人にとって、フェミニズムへ興味を抱いたきっかけはインターネットでした。インターネット上でフェミニズムについて発信するSisterleeが、誰かにとってフェミニズムに興味を抱いたり、関心を深めるきっかけとなることを目標に、今後もサイトを運営できければと思います。

また、近年、フェミニズムの名のもと、トランスジェンダーの人々をフェミニズムから排除する動きが目立ちます。私たちはそういった動きに断固反対するとともに、「女性」の中にある多様性に向き合う発信もしていければと考えております。

寄稿者の皆様や取材協力者の皆様、読者の皆様のおかげで継続的に更新できております。改めて深く感謝申し上げます。今後もご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

2020年12月12日 Sisterlee編集部一同

※工場が編集部に加入したため、加筆しました(2021年5月21日)。

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去年の2020年の紅白レビューに続き、今回は2021年の紅白をレビューしたい。 2019年の氷川きよしの男女という性別二元制からの解放を思わせる演出や、MISIAのレインボーフラッグをバックに掲げたパフォーマンスによって、性別による組み分けへの疑問が高まった後の2020年紅白歌合戦。 引き続き氷川きよしが性別二元制を解体するようなパフォーマンスを行い、紅組司会の二階堂ふみが、ほとんどの場面でスカートドレスではなくパンツルックを着用し番組を進行したことなど、規範的なジェンダー観に対抗するような演出があった。 その一方で、相変わらず男女で組み分けをする制度や、家父長制に親和的なジェンダー観を理想としたような福山雅治の曲『家族になろうよ』が白組のトリで披露されるなど、“歪み”が顕著に表れもした。 それから1年。2021年の紅白歌合戦は、「Colorful~カラフル~」をテーマに、赤と白に限らない様々な色の衣装や舞台セットが番組を彩り、総合司会、紅組司会、白組司会と分かれていたものが、今回は司会3人で全てのアーティストを応援するという形になった。また、ゆずが『虹』を、BUMP OF CHICKENが『なないろ』お披露したりと、曲名という側面からも色を感じられるものとなっていた。

LGBTQ+を意識したテーマかと思いきや…2021年紅白に覚えた“がっかり感”とは
LGBTQ+を意識したテーマかと思いきや…2021年紅白に覚えた“がっかり感”とは
Unsplashより

去年の2020年の紅白レビューに続き、今回は2021年の紅白をレビューしたい。

2019年の氷川きよしの男女という性別二元制からの解放を思わせる演出や、MISIAのレインボーフラッグをバックに掲げたパフォーマンスによって、性別による組み分けへの疑問が高まった後の2020年紅白歌合戦。

引き続き氷川きよしが性別二元制を解体するようなパフォーマンスを行い、紅組司会の二階堂ふみが、ほとんどの場面でスカートドレスではなくパンツルックを着用し番組を進行したことなど、規範的なジェンダー観に対抗するような演出があった。

その一方で、相変わらず男女で組み分けをする制度や、家父長制に親和的なジェンダー観を理想としたような福山雅治の曲『家族になろうよ』が白組のトリで披露されるなど、“歪み”が顕著に表れもした。

それから1年。2021年の紅白歌合戦は、「Colorful~カラフル~」をテーマに、赤と白に限らない様々な色の衣装や舞台セットが番組を彩り、総合司会、紅組司会、白組司会と分かれていたものが、今回は司会3人で全てのアーティストを応援するという形になった。また、ゆずが『虹』を、BUMP OF CHICKENが『なないろ』お披露したりと、曲名という側面からも色を感じられるものとなっていた。

さらに、環境問題など、社会で私たちが直面しているイシューを取り上げるコーナー『カラフル特別企画』も要所要所で組み込まれ、一年の最後を楽しむとともに、未来に向けて我々がどのように振舞っていくべきかも考えるきっかけとなるような構成となっていた。

性的マイノリティを意識したテーマかと思いきや…

今回のテーマである「Colorful~カラフル~」はセクシュアルマイノリティの存在を意識したように思われる。

セクシャルマイノリティ称揚の場でレインボーカラーがよく見られるが、これは1970年代、ゲイ解放運動の際に使用されていたピンクトライアングルの代わりにアーティストのギルバート・ベイカーによって発案されたレインボーフラッグが起源となっており、1978年6月25日のサンフランシスコ・ゲイ・フリーダム・デイ・パレードで初めて使用され、その後全世界でセクシャルマイノリティを象徴するものとなった(参考:「LGBTの象徴「レインボーフラッグ」はなぜ6色? 作った人に聞いてみた」wotopi、2016年9月27日)。

昨年10月31日に行われた第49回衆議院議員総選挙で新型コロナ対策と並行して同性婚にまつわる議論が活発であったが、そうした世相を反映したのだろう。番組ロゴも刷新され、赤と白に二分されたものではなく、グラデーションで変化していくといたデザインに変わった。

しかし、これだけクィアを意識した前振りがあったにも関わらず、いざ始まると、ステージのフラワーアートや衣装、司会者の発言では文字通りの意味での「カラフル」は強調されるものの、前半ではLGBTQ+に関する言及や演出がほぼなし。直接的な言及は、番組の終盤でオリンピックに出演したゲイの選手の発言を紹介するにとどまった。セクシュアルマイノリティへの差別や、同性婚についてのNHKとしてのステートメントも皆無だった。

マツケンサンバのステージでかろうじてセクシュアリティをオープンにしているセクシャルマイノリティ当事者(真島茂樹)やゲイシーンで活躍していると推測されるようなダンサーが出演する演出もあったが、その後に「明日への勇気をくれる歌」と銘打ったコーナーで、過去にホモフォビックな発言をしたすぎやまこういちの功績が讃えられるという、頭を抱えてしまうような展開も起きた(参考:実際にすぎやまこういち氏は「チャンネル桜」でLGBTに関しどのような発言をしたのか:開会式『ドラクエ』曲?に懸念の声」Business Journal、2021年7月23日)。

「カラフル」は、SDGsで扱われること全般のこと?

YOASOBI with ミドリーズの「ツバメ」パフォーマンスや、前述のマツケンサンバのパフォーマンス、すぎやまこういちの功績を讃えられるコーナーが含まれていた『カラフル特別企画』だったが、放送前のセットリスト発表当初、私はてっきりクィアに特化したコーナーなのかと思っていた。

しかし、いざ番組が始まってみると、「ツバメ」パフォーマンスでは環境問題を扱っており、マツケンサンバでも、障害を持った人たちや様々な人種の人たちがフィーチャーされていた。セクシャルマイノリティについてというよりは、SDGsで扱われていること全般が取り上げられているようで、カラフル(=レインボーカラー)というものが、セクシャルマイノリティを象徴するものではなく、より広義での多様性を意味するような扱いをされていた。

確かに、多様性を表現するのに様々な色を使用することは、表現方法としてあり得るのかもしれないが、レインボーカラーには、それを掲げて自らの権利のために命を懸けた先人たちの歴史があり、クィアカルチャーの一部でもある。わずかながら剝奪感を感じる自分がいた。

「家族になろうよ」からのアップデートと、限界

2020年の紅白で『家族になろうよ』を披露した福山雅治は、今回『道標』という楽曲を披露した。『家族になろうよ』については、冒頭に添付した昨年の紅白レビュー記事を含め、異性愛規範に基づいた家族像やジェンダーロールを称揚するような歌詞であることに一定数の批判があった。

今回の『道標』はジェンダーやセクシュアリティにまつわる固定観念をなぞるような内容ではなかったため、その点ではかなり今回の紅白のテーマに沿ったものだったとは思う。しかし、その反面、この曲は故郷の祖母への感謝の気持ちを込めており、「イエ」的なつながりを強調するものではある。拒否される可能性を恐れ、家族にすらカムアウトできない当事者や、実際にセクシュアリティやジェンダーアイデンティティを理由に家族からの拒否に遭う当事者が現時点でまだ多くいるだろうことも忘れずにいたい(「令和元年度 厚生労働省委託事業 職場におけるダイバーシティ推進事業 報告書」134項、三菱UFJリサーチ&コンサルティング、令和2年3月)。

川口春奈の毅然とした態度に好感

と、ここまでネガティブな点ばかり挙げてきたが、司会の川口春奈の毅然とした態度は、番組等で男女が進行などをする際、男性がメインで、女性が一歩引いた控えめな態度であることがまだまだ多い中で、個人的には好印象であった。

当初は、川口の衣装を去年の紅組司会の二階堂ふみのメッセージ性あふれる衣装等と比較してしまい、明白なメッセージがなく物足りなかったと思っていたのだが、そういった政治性を無意識的に女性にだけ要求している自分に今回気づくことができた。

日本社会で女性差別が横行していることもあり、差別に反対する声を上げる人が男性より女性が多いと感じていたからか、ついつい女性は何か行動を起こしてくれるだろうと思っている自分がいた。しかし、男性も当然ながらこの社会を生きる一員だ。2022年の紅白では男性司会者もそのような性差別反対、ジェンダー平等に関するメッセージを発信しているところを見られたらと思う。

我々は別に、虹色が好きなわけではない

我々クィアは別に虹色自体が好きなわけではない(もちろん好きな人もいるだろう)。表象で虹色が出てくるとき、そこに「セクシュアルマイノリティをエンパワメントしていく」という意図を見出すことができるから称揚するのである。

今回の紅白は、ほぼ確実にそれを主題にしていたはずなのに、直接的な言及を避けていたため余計期待外れであった。同性婚について直接言及してほしかったくらいである。そのようなことをすると、娯楽に政治や思想を持ち込むなといった意見も出てくると思うが、テーマや司会編成の変更をしている時点ですでに持ち込んでいるのである。そこまでしておいて、中途半端な表象ばかりで言及もないとなると、我々クィアは利用されたと感じるだろう。

このように、企業や団体などがレインボーカラーを掲げてクィアをサポートしているように思わせて、実際のところは特にそれ以上のことはしていない、又はむしろクィア差別に加担するような活動や投資をする「レインボーウォッシング」という言葉があるが、今回の紅白歌合戦にはそのようなニュアンスを感じ取った。2021年東京オリンピックの開会式でのレインボードレスを着たMISIAが国家独唱をしたのも、レインボーウォッシングの一例として挙げられるだろう。

と、結局終始批判ばかりになってしまったが、自分が今まで気が付かなかったことに自覚することができた機会にもなったので、皆さんにとって、少しでもこのような気付きの多い番組になっていってくれたらなと思う。2022年の紅白がどのような方向に向かうのか、今から楽しみである。

執筆=ぽむぞう

【参考資料】

「司会呼称とロゴ刷新で“区別”を撤廃…「多様性」尊重の紅白に広がる賞賛 」女性自身、2021年10月30日

https://news.yahoo.co.jp/articles/529f47a9067ca1e887d468de015597ddf46419d4 (福山雅治『道標』に関する記事です)

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皆さんはaespaをご存じだろうか。少女時代やEXOを輩出したSMエンターテインメントのSMCU(SM Culture Universe)初のプロジェクトとして2020年11月に『Black Mamba』でデビューし、2021年10月には1stミニアルバム『Savage』をリリース。国内の各音源サイトで一位、音楽番組でも4回の一位を獲得し、飛ぶ鳥を落とす勢いの注目グループだ。

何より注目すべきはaespaの世界観だ。SM Entertainment JAPAN公式サイトによると、aespaは「“Avatar X Experience”を表現した「ae」と両面という意味の英単語「aspect」を結合して作った名前」であり、「自分のもう一人の自我であるアバターに出会い、新しい世界を経験する」という世界観をベースにしているという。

現実世界にいるaespaのメンバーは「仮想世界の『もう一人の自分』であるアバター『ae-aespa(アイ・エスパ)』とSYNK(※)を通じてお互いリンクする」らしい。

※SYNK……aespaのメンバーとアバターがつながった状態のこと。

SYNKはテクスト(文字伝達)→音声や映像通話の順で発展していき、より持続すれば、アバターたちが現実世界に来てメンバーたちと対面する、REKALLが可能になる。

彼女らが現実世界にくる方法は一つで、それはP.O.S(Port Of Soul)というシンクホールを通過することである。しかし、今現在そのSYNKがBlack Mambaという大蛇によって切断(=SYNK OUT)された状態であり、Black Mambaを探しにメンバーはKWANGYA(※2)に向かうのである。

※2……無規則、無定形、無限の領域

と、ここまでaespaのコンセプトについて一通りまとめてみたが、初めてこの世界観に触れた人はおそらく理解があまり追いつかないのではないかと思う。かくいう私もデビュー時から彼女らの曲やコンセプトに触れていたもののぼんやりとしか理解できておらず、今回この記事を書くために調べていく中で、やっと自分が理解できる範疇に落とし込めたといった感じである。

このように、何が何だか分からないがとにかく壮大で規格外の世界観を展開し、常に蛇と戦っており、その規模感と意味の不明さで正直笑ってしまうといった感じで、aespaのカムバの際は、私のTwitterのTLでは毎回大喜利状態なのである。

aespaが戦っているのは「家父長制」か

かくいう私も10月の『Savage』のカムバをもれなく楽しんでいたのだが、ふと、彼女らは結局何を我々に伝えようとしてくれているのか、という疑問が生まれた。そこでたどり着いたのが、もしかして彼女らは家父長制を打破しようとしてくれているのでは?という仮説だ。

というのも、aespaがデビュー時からずっと対峙している蛇は、精神分析などにおいて男性器のメタファーとされてきたが、これを家父長制のメタファーとして拡大解釈すると、蛇(=家父長制)を打倒することで、Black Mambaによって切断されていたaeとのリンクが可能になり、自分がなりたい自分(家父長制に抑圧されない自分)になれるというストーリーを読み取ることが可能なのではないかと思ったのである。

特に今年5月にリリースされた2ndシングル『Next Level』の歌詞では、“내 손을 놓지 말아 결속은 나의 무기”(私の手を離さないで 結束は私の武器)や“더 아픈 시련을 맞아도 난 잡은 손을 놓지 않을게”(大変な試練に遭っても私は掴んだ手を離さない)といったフレーズがあり、フェミニズム運動において重要視される連帯が強調されていたり、『Savage』のサビでは“I’m a savage, 널 부셔 깨 줄게oh I’m a savage, 널 짓밟아 줄게oh”(私は獰猛、あんたを砕いて壊してあげる oh 私は獰猛、あんたを踏みにじってあげる oh)といった様な攻撃的なフレーズが登場する。

特に後者は、森喜朗元東京五輪・パラリンピック組織委員会会長の女性蔑視発言をきっかけに、家父長制下で女性に礼儀正しさや「わきまえ」が要求されることに対して抗議した「#わきまえない女」のムーブメントとも通じ合うマインドがあるのではないかと感じている。

フェミニズム性を保持しつつも、強烈すぎる世界観

2015年の江南駅殺人事件以降、韓国でフェミニズムリブートが起き、KPOP内でもMAMAMOOやITZYを筆頭とした女性グループから女性が自分らしく生きることを称揚する内容の曲が多くリリースされている(SMからの作品でいえば、直近ではRed Velvetの『Queendom』もそうした曲にあたる)。

フェミニズムの波が来ている中で、そのフェミニズム的なメッセージを非現実的で確固たるコンセプトの世界観に違和感なく織り交ぜており、フェミニズムに強く共感する人たちはもちろん、そうでない人たちも娯楽として十分に楽しめるようになっているところが、個人的に感心したポイントだ。

これはあくまで個人的な意見だが、フェミニズムは全面的に支持しているし、アイドル業界というかなり抑圧的な世界でフェミニズムと親和性のある曲が活動曲としてリリースされることもとても嬉しいことではあるが、ゲイのシス男性として、当事者ではないという自覚から、ファンダムとしてのその盛り上がりに乗れない自分がいた。

しかしaespaのような形で、フェミニズム性はしっかりと保持しつつも、それに限定されない強烈な世界観によってみんなと同じテンションで楽曲を享受できるというのが少し嬉しかった。

一度も恋愛について歌っていない

aespaがこれまでの活動曲『Black Mamba』、『Next Level』、『Savage』で一回も恋愛に関して歌っていない、という点も指摘したい。どうしてもロマンティックな要素を求められる存在であるアイドルが、デビューから一貫してaespaの世界観を表現し、常に蛇との闘いについて歌っているのはかなり異例である。というか異例どころではない。

しかし、こういった表現によってAロマンティックをはじめとした恋愛感情を持たないセクシャリティ属性を持つクィアなアイドルファンが疎外感を感じるということがなく、ファンダムの周縁ではなく中心に、自分たちの居場所があると感じられるのではないか。

aespaの世界観はクィアな人たちを包括しているというよりかは、今までアイドルのファンとして想定されていたシスでヘテロなファンが想定されていないという、マジョリティすら排除する形でマジョリティとマイノリティの垣根を取っ払っているのである。

マイノリティを包括する場合、どうしてもインクルージョンという形をとることが多いが、これだとどこかマジョリティの空間の間借りをしているような、あるいはマジョリティから“認められて初めて存在できる”という感覚を個人的には覚える。

しかし、aespaのファンダムではすべてがエクスクルージョンされることで、マジョリティ/マイノリティといった二項対立が無効化され一緒くたになっている印象を受けるので、クィアな人たちはより気兼ねなくファンダムの中にいられるのではないかと思う。

サウンド面にもあらわれるaespaの「クィア性」

aespaのクィア性は、サウンド面においてもあらわれている。たとえば、『Savage』収録曲の『YEPPI YEPPI』は、ブラック&ゲイクラブを中心として生まれたハウスがベースとなっており、クィアフレンドリーな曲となっている。また『Savage』の金属音のようなメタリックで無機質なサウンドからも分かるように、規範的な女性のイメージから脱却した、または無性的な印象だ。

また、歌唱法に関して言えば、メインボーカルのウィンターとニンニンの歌い方が今までのSM所属の女性アーティストではあまり聞かれない男性ボーカルで多用されるような力強い歌い方や拍の取り方をしていると指摘されている

このように、SMエンターテインメントが得意とする壮大で難解な世界観を表現しつつも、それだけにとどまらず、韓国社会におけるフェミニズムリブートやKPOPにおけるフェミニズムの隆盛、さらにはクィア性のあるメッセージをもしっかりと盛り込めているようにも感じられるaespaの活躍、そしてコンセプトの展開に今後も注目していきたい。

しかし、業界がこのフェミニズムムーブをビジネスチャンスとしてのみ捉え、それを利用しているように感じられる面もある(「NiziProjectでブームのJ.Y.Park『理想の上司』と称揚される裏で忘れ去られているもの」参照)。そういった側面があることを忘れずに、我々ファンも注視していく姿勢を持って応援していければと思う。

参考文献:

「[공지] [아이돌 세계관] SMCU aespa(에스파) (1) 세계관 간단 정리([お知らせ][アイドルの世界観]SMCU aespa(エスパ) (1) 世界観の簡単な整理」)Love My Blue

「aespa 에스파 (エスパ)‘ep1. Black Mamba’ — SM Culture Universe」YouTube

執筆=ぽむぞう

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※この記事は映画『カラミティ』(2020)のネタバレを含みます。

2021年、もっとも見るべきアニメ作品のひとつが9月から日本公開になった。アメリカ西部開拓時代を描いた映画『カラミティ』である。

『カラミティ』は、19世紀に活躍した実在の女性ガンマン「カラミティ・ジェーン」の少女時代を題材にした作品だ。

監督は、前作『ロング・ウェイ・ノース』で日本のアニメ関係者・好事家たちを虜にしたレミ・シャイエ。制作スタジオは『ロング・ウェイ・ノース』に続いてシャイエ監督とタッグを組む、Maybe Moviesだ。

「丸い鼻の女の子が主人公だっていい」

本作品は非常にすぐれた芸術性を備えていると同時に、「『女らしさ』からの解放」という極めて今日的なテーマを描いた作品でもある。

『ブレッドウィナー/生きのびるために』・『ウルフウォーカー』(いずれもカートゥーン・サルーン)や『幸福路のチー』(Happiness Road Production)など、今や「女性の権利」や「自立」についての物語は、実写映画に限らずアニメ映画の分野でも盛んに描かれるようになっている。

シャイエ監督『ロング・ウェイ・ノース』も本作と同様、若き女性の自立と冒険の旅を描いた意欲作だった。

満を持して日本公開になった本作の主人公、“カラミティ(疫病神)”ことマーサ・ジェーンは、「女」や「男」といったさまざまな「枠」からとことん自由で、奔放な性格の女の子である。

その型破りさは、まず彼女のキャラクターデザインに見て取ることができる。マーサのキャラデザについてシャイエ監督は「実際のカラミティ・ジェーン本人の風貌を参考にした」と語る。

しかし制作途中、観客ウケを気にした出資者により「もっと美人のキャラにしないか」と要望を受け、一度は修正しかけたという。それに反対したのは、シャイエ監督の女性の友人だった。

「丸い鼻の女の子が主人公だっていい」という友人からの叱咤によって、マーサのキャラデザは気の強さがあふれ出るような現在のものへと落ちついた。ストーリーボードの制作に携わったマイリス・ヴァラッドは、マーサのキャラデザについて「一般的な外見という枠から脱却する必要があ」ったと語っている。

このオリジナリティあふれるキャラデザなしに、マーサというキャラクターは成立しえなかっただろう。

冒頭、マーサの顔が映される印象的なカットから、観客はその強い意志をたたえた表情に圧倒される。

「女主人公らしさ」から逸脱した強烈な目力、太い眉、そして団子のような丸い鼻のマーサは、冒頭の1カットで堂々たる存在感を示し、「既存のキャラクターと私はちがう」という意思を表しているかのようである。

西部開拓時代と現代に共通する、「○○らしさ」を強いる構造

作中で、マーサと彼女の家族が行動を共にしている開拓者たちの幌馬車隊は、西部へと向かう旅の途上にある。「オレゴンルート」と呼ばれたルートを辿って、3,000km以上離れたカリフォルニアに向かおうとしているのだ。

19世紀、牧場主や金鉱掘りなど様々な夢を抱く人がこのルートを辿って西部を目指したが、内10%は命を落とすほどの危険な旅路だった。

マーサ一家は貧しく、ひとり親家庭で、後から隊に加わったという事情から旅団の中でも浮いた存在である。そのことは、一家の身につけている衣服や、馬車のおんぼろさといった面に細かく描写されている。

「服装」は本作において重要なファクターであるが、なかでも、不慮の事故により父親に頼れなくなったマーサがズボンを穿き、馬に乗り、髪を切るシーンは本作の“アイデンティティ”ともいうべき象徴的なシーンである。

マーサは決して「男になりたい」からズボンを穿いたのではない。ズボンを穿いてもなお、マーサは女の子だった。

彼女はただ、「ズボンの方が楽だから」「長い髪は邪魔だから」という合理的な理由でそうするが、周囲はそうしたマーサの合理性をゆるさない。

スカートとエプロンを身につけ、家父長制に従い、つねに馬車の周囲を離れないように行動するよう強いられていた女性たちから見ても、マーサのふるまいはあまりに異端であった。

マーサがズボンを穿いただけで「どうかしている」となじられる場面は、今の観客からすると「そのリアクションこそバカげている」と言いたくなる。しかし現代においても、「〇〇らしさ」や慣習から自由になれないがゆえに、かえって不合理な判断がなされる場面が、しばしば見受けられる。

たとえば、今から3年前に明らかになった東京医大ほかの入試における女性差別問題。

個人の学力を無視し、男性や現役生を優遇する点数操作が長年にわたって行われ、女性の合格者が毎年3割程度にとどまるよう“調整”されていたことが明るみに出て、大問題になった。

差別的な措置を行ってきた大学は当時「医師不足解消のため」だったと主張したが、であれば男女関係なく学力を上から数えて合格者を決め、将来有望な学生をより多く育てることこそ合理的であろう。

実際、不正発覚後の合格率をみると、男女の合格率にほとんど差はなくなっている。

医師のように激務に追われる職種において、女性の働き手が中心になりづらい状況は理解できる。しかし男性が家事や育児など、家のなかのことがらへの参加に消極的でも仕事に専念できるのは、それら私生活の面倒をみてくれる女性の存在のおかげにほかならない。

家庭内において、女性に一方的に家事や育児を「期待」する風潮もいまだ根強い。

それに、女性ばかりになると仕事が回らなくなるというのであれば、女性が多数を占める看護や介護業界ははじめからまったく仕事が立ち行かなかったはずである。

必要なのは、適した人が適した場所で無理なく働けるように機会を与え、環境を整えることだ。

マーサは、それまでスカートだけを穿かされている状態に窮屈さを感じていた。決して、好き好んでスカートだけを穿いていたわけではない。事実、ズボンを穿き、髪を短くしたマーサは幌馬車隊のリーダーであるアブラハムから装いや行動を否定され、父親にまで嫌悪される。

個人の適正・能力を無視した性的役割というものは、今も昔も変わらず単なる「個人の選択」によるのではなく、それを強いる社会構造ゆえのものということである。

加えて『カラミティ』という作品の秀逸さとして、マーサを縛る「女らしさ」の呪いだけでなく、「男らしさ」の呪いについても巧みに描いていることが挙げられる。

マーサの目が暴く、虚飾の「男らしさ」

物語の前半では、幌馬車隊という限られた空間の中で多層的な男性社会とその問題点が描かれる。

マーサの一家は幌馬車隊の中でははみ出し者であり、父親のロバートはマーサに対しては家父長主義的な態度をとるものの、一方ではアブラハムや旅団の仲間から不興を買わないか、絶えず怯えている。

また、マーサのことを“弄る”男子グループのひとりであるイーサンも、マーサに対して威張ってみせつつ同じ男子グループの仲間から笑われたり、父のアブラハムから叱られるなどのプレッシャーにさらされている。

そして旅団の頂点にいるアブラハムこそ究極の「強者男性」かと思いきや、彼もまた、外部から軍人サムソンがやって来たことによって、能力不足やあやまちを認めることができない不出来な一面がさらけだされる。

マーサが幌馬車隊を離れて旅に出てからも、この「男性らしさ」を取り巻く構図は一貫している。

印象的なのは、後半登場する「保安官」と「大佐」というふたりの人物である。

彼らはホットスプリングスという町の権力者として威張っているが、破天荒なマーサとのドタバタ劇のなかで度々失態を犯し、滑稽な姿をさらす。

加えて、幌馬車隊の隊長よりも上位の強者男性として登場したサムソンもまた、終盤、彼が強者として振る舞うためにとある「嘘」を吐いていたということが明らかになる(ネタバレになるため、詳しくは本編を確認してほしい)。

幌馬車隊の中で、あるいは旅の途中でマーサが目にする男性たちは、本質の部分ではどこか自信がなく頼りなげで、自分自身の弱さを補うためにみな「男らしさ」の虚飾に縋っているのだ。

そんな男性たちとは対照的に、縦横無尽に男性社会の秩序を掻き乱していくマーサだが、一見無軌道にみえる彼女の行く先に終盤、ひとりのキーパーソンが現れる。

マーサを導くロールモデルの存在

自身で金鉱の採掘を采配するムスタッシュ夫人は、地質学の勉強をしたと語り、契約書にも自分の筆跡でサインをする。この時代にしては稀有な自立した女性といえる。

1920年に合衆国憲法修正第19条が成立する前、女性に参政権すらなかった時代に、マーサが高等教育を受けた女性に出逢えたのは奇跡にも等しいできごとだったに違いない。

ムスタッシュ夫人というキャラクターはマーサのひとつのロールモデルであり、この作品が謳う「〇〇らしさ」からの解放を、マーサという子どもに特有のもの・一過性のものにしないために重要な存在だ。

彼女のような自立した大人の女性のあり方が示されることで、観客もまた世界には多様な女性の生き方があることのだと気づかされ、自分らしい人生の将来像を思い描けるようになるのである。

スカートもズボンも、自由に選択するために

幸いにも、現代の女性はマーサのようにズボンを穿くだけで「どうかしている」と罵られることはない。

ただし現代女性、あるいは女性に限らずあらゆるジェンダーの人にとって、マーサに不自由を課していた「スカート」はかたちを変えて存在している。

たとえば選択的夫婦別姓の問題であったり、同性カップルが婚姻制度から排除されている問題などもそのひとつとして考えられるだろう。

今までと異なる選択をしようとする人はつねに「想定外だ」と言われ、白い目で見られるが、最初にズボンを穿いた女の子がいたからこそ、今の女性はバッシングを受けることもなく好きな装いやふるまいができるようになってきた。

注記しておきたいのは、マーサがズボンを穿くということは、女からスカートを奪うという意味ではない、ということだ。実在のカラミティ・ジェーンもまた、作中と同じように普段はズボンで過ごし、時おりスカートを穿くこともあった。

選択肢が増えるということは、従来の選択肢がなくなることを意味しない。ましてや今までと同じ選択をする人がなにかの権利を失うのではないか?というのは、今まで他人の分の席まで脚を広げて座っていた人による杞憂ではないだろうか。

もし今までと変わることがあるとすれば、ありのままの自分で生きることを否定されて、悲しい思いをする人が減るというだけのことだ。

マーサが生きた時代、今までと違う生き方を望む者は殴られたり汚名を着せられたりしながら、自分を貫くしかなかった。あるいは、それができずに規範通りの生を強いられた人たちも、数えられないほどいただろう。

今のわたしたちには、すくなくとも意思を示す権利は保障されていて、その機会も用意されている(この国の民族的マジョリティであるわたしなどは、長年日本で暮らす外国籍の人たちにあるべき参政権がない問題も、片方では留意しなければいけない)。

くしくもこの記事が公開された3日後は、衆院選の投開票日である。期日前投票は、すでに開始されている。

本レビューではもっぱらフェミニズムやジェンダー的な切り口から語ったが、本作はわかりやすくエンタメ性の高い作品でもあり、大人から子どもまで掛け値なしに楽しめる。また、美麗かつ実験的な美術やアニメーション表現をみているだけでも、映画代の元は充分取れるだろう。

『カラミティ』は全国にて順次、公開予定だ。詳細は公式サイトにてチェックできる。

ジェンダーを問わず様々な人に本作を見て、ぜひ自分なりの「自由」を見つけてほしい。

そして、マーサの活躍でさまざまな「〇〇らしさ」から解放され、新たな活路を見いだした開拓者たちのように、わたしたちの生きる社会がより自由になっていくために、一人ひとりになにができるのか、すこしばかり思いを馳せてみてほしい。

そしてできれば、行動してみてほしい。気もちよく映画館を出た、帰り道にでも──『カラミティ』の世界に魅了された、いちファンからの提案である。

参考:

1. 2021年10月18日閲覧, 朝日新聞

2. THE ART OF CALAMITY, 2020年, Maybe Movies

3. 2021年10月18日閲覧, 読売新聞

4.2021年10月21日閲覧, 朝日新聞

5. 2021年10月18日閲覧, 日本経済新聞

執筆=紫瑜
画像=Unsplash

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今月31日に実施される衆議院選挙。周囲と選挙についての会話を始めたいものの、なかなか難しいと感じている人も多いのではないだろうか。 政治の話をしにくい現状に問題意識を持ち、「気軽に話題にできるように」とフェミニズムグッズやVOTEグッズを取り扱っている店がある。アジア雑貨などを取り扱う雑貨店「doughnut」だ。 オンラインショップでの販売のほか、大阪市の着物屋「姉妹屋」内で、不定期で実店舗での販売もしている。 店長の種吉さんにフェミニズムグッズやVOTEグッズを販売する理由について伺った。 コロナ禍でDV被害が増えているという報道を見て ーーVOTEグッズを販売する以前から、フェミニズムのグッズを扱っていたと聞いています。まず、フェミニズムグッズを扱うようになったきっかけを教えてください。 昨年の5月に始めました。新型コロナ流行下で移動が制限されて息苦しい空気になっていると感じたり、DV被害が増えているという報道を見たことがきっかけです。ピンバッジなどのグッズを見て、気持ちが変わるようなことがあったらとか、もっといろいろなことを口に出せるようになったら、という気持ちで扱うようになったんです。

選挙に行こう、というメッセージをファッションで…VOTEグッズ販売店が語る「たくさん売ることができない」ワケ
選挙に行こう、というメッセージをファッションで…VOTEグッズ販売店が語る「たくさん売ることができない」ワケ
「doughnut」ウェブサイトより

今月31日に実施される衆議院選挙。周囲と選挙についての会話を始めたいものの、なかなか難しいと感じている人も多いのではないだろうか。

政治の話をしにくい現状に問題意識を持ち、「気軽に話題にできるように」とフェミニズムグッズやVOTEグッズを取り扱っている店がある。アジア雑貨などを取り扱う雑貨店「doughnut」だ。

オンラインショップでの販売のほか、大阪市の着物屋「姉妹屋」内で、不定期で実店舗での販売もしている。

店長の種吉さんにフェミニズムグッズやVOTEグッズを販売する理由について伺った。

コロナ禍でDV被害が増えているという報道を見て

ーーVOTEグッズを販売する以前から、フェミニズムのグッズを扱っていたと聞いています。まず、フェミニズムグッズを扱うようになったきっかけを教えてください。

昨年の5月に始めました。新型コロナ流行下で移動が制限されて息苦しい空気になっていると感じたり、DV被害が増えているという報道を見たことがきっかけです。ピンバッジなどのグッズを見て、気持ちが変わるようなことがあったらとか、もっといろいろなことを口に出せるようになったら、という気持ちで扱うようになったんです。

実際、いい会話のきっかけになったという声をいただいています。

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Unsplashより

高校1年生の休み時間、友人にBTSのダンスプラクティス動画を見せられたことがきっかけだった。

いわゆる“沼落ち”までそう時間はかからずに、気がつけば推し続けて6年が経とうとしている。生まれて初めて作ったオタ活用のTwitterアカウントで知り合った同い歳の彼女と私が、BTSの話なんて関係なく夜な夜な電話をするほど親しくなったのは、お互いが“ハーフ”(*)だと言うことがひとつの大きな要因であろう。

私の生まれ育った地域ではハーフという存在は一応珍しく、ひとつの学校の中に数名、外国と繋がりのある生徒はいたものの、同じ学年でハーフが何人も、ということはなかった。彼女との出会いが、はじめての“ハーフ”の友達との出会いだった。

*……この記事では、「ハーフ」という言葉が差別的なニュアンスを含んでいるにもかかわらず日常的に使われている現状を踏まえ、“ハーフ”と引用符付きで表記している。また、この記事ではミックスへの具体的な差別の描写があるため、ご注意願いたい。

初めてモヤモヤに共感しあえた

「お店で英語のメニューを渡された」とか「日本語上手ですねと褒められた」とか、あるあるというより、モヤモヤするけど誰にも共感してもらえないエピソードを「わかる!」と初めて共感しあえた相手だった。

「“ハーフだから”美人」とか、「“ハーフだから”運動能力が高い」とか、そういった偏見の波に幼い頃から当てられてきたために、それにモヤっとしたり不快に思ってももはや状況が変わることはないと諦めていた。しかし、彼女は高校までインターナショナルスクールに通っていたこともあり、“ハーフ”である自分に対する人々の視線に、おかしい事はおかしいと物申していいのだ!ということを教えてくれた。

小学校に入学したばかりの頃、「何で肌が黒いの? “外人”なの?」とクラスで支持を集めていたガキ大将的な存在の男の子達から聞かれた。当時の私は「お父さんがガーナ人だからだよ」と、母から教わった私の肌が黒い理由をきちんと答えていたと思う。それがからかいだったのか、興味から出た質問なのかは定かではない。5年生になって、隣の席の男の子が私の机にくっ付けたがらなかったことの理由がなんであったのかも分からない。

そして大学生になった今、私は小学校の頃と同じように、「ハーフなの?」「留学生かと思った!」「お父さんとお母さんってどんな出会いなの?」「目立つよね〜」「その顔で英語話せないの!」といった言葉や好奇心を初対面の人や友人から浴びせられる日々を送っている。

初対面の、どう考えても失礼な人に対しては「日本人です!」と怒るようになったが、親しい友人からの言葉には信じられない!と心では思っていても、愛想笑いでやり過ごしてしまう自分がいるのが現状だ。

調べてわかった、“ハーフ”をめぐる数々の事実

正直、大して仲良くもない人に自分のルーツだとか、親の馴れ初めだとか、肌の色とか、体型についてとか、一切触れてほしくない。喫茶店でアルバイト中に「外国の血が入っているからお尻のラインとかが綺麗だもんね。セクハラとかじゃなくって」と嬉しくもないことで褒められ(?)たり、パーソナルなことについて丁寧に説明することに飽き飽きしている。

私がハーフであることがそちらになんの影響を与えるというのだろうか。ハーフの友達が欲しかった? 珍しいから? 目立つから? そちらが率直な好奇心で投げかけてくる興味を、私は一生背負って生きていかなければならないのに。

仲のいい友人が道を歩いている黒人の留学生女性を見て、「きらりと似てない?(笑)」となんの悪気もない笑顔を向けてきたこと。知らない小学生が私の顔を見て、「大坂なおみだ(笑)」とニヤニヤしていたこと。そう簡単には忘れられない。勝手にコンテンツ化してくれてどうもありがとう、という気持ちである。

小さい頃からどこか他の人より何に対してもポジティブに居られたのは、「私は特別な素晴らしい存在で、周りの人と違うということが私をさらに特別にしているのだ」と思わなければ、嫌でも浴びせられ続ける周りからの視線に耐えられないから自然に身についた盾なのかもしれない。

そういった社会の現状をつくった根本にはメディアにおけるハーフの取り扱われ方にあるという。大学3年生の頃、私は大学の研究の一環で現代の日本社会におけるハーフの立ち位置について調べたことがある。

その過程で、そもそも“ハーフ”という言葉が差別用語であること、メディアがつくってきた“ハーフ”に対するステレオタイプが人々の感覚に根付いていること、そして、ハーフに対する差別が実際にあることを知った。

戦後から現在までの「混血」「ハーフ」「ダブル」「ミックス」などに関する研究の第一人者である下地 ローレンス吉孝さんの著書『「混血」と「日本人」ーーハーフ・ダブル・ミックスの社会史』(青土社, 2018)には、“ハーフ”が直面してきた現実が記されている。

私が研究していく中で、この問題に関する参考資料が下地さんの本くらいしかなかったことが、“ハーフ”と呼ばれる人々の存在や問題が無いものとされてきたことを物語っている。

ツイッターで「わきまえてしまう」

そうして調べていくうちに、今までは日頃のどうでもいいことや芸能ニュース、推しの近況といった情報を得たり発信する場としてしか利用していなかったTwitterが、ある人々にとっては政治や社会問題について共有する場でもあるということを知った。

そこでは、私と同じように“ハーフ”であることにある種のコンプレックスを持っている人やフェミニズムについて発信している人たちが悩みや考えを共有していたのだ。

初めは、「わかる!」と感じたツイートを“きらり”では無い、リアルな私としての実名アカウントでいいねやリツイートをしていたが、何となくやりづらさを感じていた。本当はもっと引用リツイートをしたり、関心のある問題についてコメントしたかったが、どうしてだかやりにくい。それは、きっと人の目があったからだと思う。

リアルに顔を合わせたり、(恋愛的な意味で)ちょっといいなと思っている先輩だったりが見ているアカウントで社会的な事を語るというのは、「うるさい女」という印象を与えるのではないか。そういう意味での「わきまえ」意識が働いたのだ。

そのため、Twitterを思う存分には使えていなかったのだが、不意に目に付いた1つのツイートが「きらり」というアカウントを作ったきっかけになった。「フェミニストはモテないブスなおばさんが嫉妬して文句を言っているだけだ」という趣旨のもの。

当時、Twitterからの情報で共感する事の多くがフェミニズム関連だったことから、私はおそらくフェミニストなのだろうという意識が芽生えた時期だった。そのツイートを見て、「はぁ? 私かわいいし!!」と思ったのがきっかけである。今思うときらりというアカウントは、フェミニストへの勝手なイメージに対抗するべく作り出した私だったのだ。

BTSと、BTSコミュニティがくれたもの

防弾少年団のリーダーであるRMは、「ぜひ僕を利用してください。ぜひBTSを使ってください。あなた自身を愛するために」という言葉を私たちarmyにくれる。ある種の商品として存在する限り、KPOPアイドルたちはルッキズムや人権の侵害といった問題と切っても切り離せない。

その事実はいちファンにとっては心苦しいものであり、ファンコミュニティとして、彼らを応援する1人のファンとして、アイドルという存在にどう向き合っていくのかという事は常に問い続けなければならない問題である。

しかし、BTSが体型やビジュアルだけでは測ることの出来ないものを、音楽と、そして「BTS」という独自の概念のような存在として伝えてくれていると言うのもまたひとつの事実である。

もともと世間からの抑圧を跳ね返すというコンセプトで生まれたアイドルのBTSが、国連でスピーチをしたこと。そして彼らのファンダムは慈善団体へ多額の寄付をしていること。世界的な規模で大きくなったファンダムのあり方を導いているのは紛れもなくBTSのもつ信念や、彼らが私たちに投げかけてくれている言葉なのだと思う。

私が防弾少年団を何年も追い続けているのは、彼らのパフォーマンスやビジュアルもさることながら、彼らが発信するメッセージに毎度奮い立たされているからだ。私がツイッターで積極的に発信をしようと考えたのも、彼らや、彼らを通じてつながった冒頭の友人の存在があったからだ。

「Love Myself. Love Yourself.」とメッセージを掲げ、自分たちを応援してくれる全ての国の全てのARMY(彼らのファンの名称である)に「愛しています」と同じ言葉をくれる。どんな人種でもどんな信仰があっても、それを尊重してくれる。そんな彼らの背中を追い続け、リアルな私としても、きらりとしても、差別に反対し続けていこうと思う。

執筆=きらり

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私にとって、青春を過ごした1990年代の10年間の空気はとても深く根づいていて、おばさんになったいまも90年代のあれこれが影響しているのを感じる。 有難くも機会を頂いたので、当時の、バラエティーを中心にしたテレビ番組から見た1990年代について、ほんの少しだが話していきたい。 その前に、まず断わらないといけないのは、今回記事に書く話はあくまでも個人史でしかなく、経験したことも、思い出し考えたことも、すべて私という主観に基づくバイアスの掛かった証言でしかない。私の語りが正しいわけでもないし客観的な記録でもない。四十代以上の人たちが百人いれば百人それぞれの1990年代の思い出や記録があり、この記事についても「全く違う」と思う方も多いとは思うが、しばらくお付き合い頂けると幸いである。 90年代の私は、サブカル好きに対し一方的に「趣味には善し悪しがあり、わかる人にはわかると考えるおしゃれで純粋な人たち」という苦手意識を持っていた。『ロッキング・オン・ジャパン』などを読んで渋谷系や洋楽などの音楽を好んで聴くこともなく、『ぴあ』を手にミニシアターや小劇場に足を運ぶこともなく、『Olive』を読んで女の子としてのナチュラルで合理的な自分らしさを探すこともなかった。

社会が悪趣味や露悪に慣れていたあの時代…テレビっ子だった私から見た、90年代といま
社会が悪趣味や露悪に慣れていたあの時代…テレビっ子だった私から見た、90年代といま
Unsplashより

私にとって、青春を過ごした1990年代の10年間の空気はとても深く根づいていて、おばさんになったいまも90年代のあれこれが影響しているのを感じる。

有難くも機会を頂いたので、当時の、バラエティーを中心にしたテレビ番組から見た1990年代について、ほんの少しだが話していきたい。

その前に、まず断わらないといけないのは、今回記事に書く話はあくまでも個人史でしかなく、経験したことも、思い出し考えたことも、すべて私という主観に基づくバイアスの掛かった証言でしかない。私の語りが正しいわけでもないし客観的な記録でもない。四十代以上の人たちが百人いれば百人それぞれの1990年代の思い出や記録があり、この記事についても「全く違う」と思う方も多いとは思うが、しばらくお付き合い頂けると幸いである。

90年代の私は、サブカル好きに対し一方的に「趣味には善し悪しがあり、わかる人にはわかると考えるおしゃれで純粋な人たち」という苦手意識を持っていた。『ロッキング・オン・ジャパン』などを読んで渋谷系や洋楽などの音楽を好んで聴くこともなく、『ぴあ』を手にミニシアターや小劇場に足を運ぶこともなく、『Olive』を読んで女の子としてのナチュラルで合理的な自分らしさを探すこともなかった。

これはサブカル好きな人たちが過ごしたあの時代の記憶と少し違う、アンダーグラウンドからもディープからも遠い、ただのイケてないテレビっ子だった私から見た、90年代と今の話だ。

様々な問題を剥き出しにしながら東京オリンピックは始まり、そして終わったが、そのあらわになった問題の一つが開会式のときの小山田圭吾の辞任劇であった。

90年代が忘れられないおじさんたちのノスタルジーと強権が発揮された結果、開会式と閉会式があんまりな状況になり「90年代の葬式のよう」とも表現され、さらに90年代サブカルの一部の傾向である「悪趣味」「鬼畜」というキーワードがクローズアップされていった。

この一連の流れのなかで二つ、気に掛かる言葉があった。
ひとつめは90年代サブカルの悪趣味について「あのころ全員がこうだったと思わないでほしい」という言葉、もう一つは90年代を振り返る風潮に対して、「当時は仕方なかったと言っているようだ」という反応だ。この二つの声に、私は小さな異議を唱えたい。

90年代のお笑いやドラマと露悪趣味

はたしてディープなサブカルに触れていないからと言って「当時の自分は鬼畜や悪趣味とは関係ない」と言い切れるのだろうか。

私は、90年代流行していたスニーカーやストリートといったファッションや、ユーロスペースやシネマライズなどのミニシアターで上映されていた映画のことは大まかにしかわからないが、テレビについてなら少しは話せる。『カノッサの屈辱』『料理の鉄人』『やっぱり猫が好き』『金田一少年の事件簿』『SMAP×SMAP』……。テレビっ子だった私が思い出す1990年代、テレビが映し出した世間の空気は、1980年代からの流れを受けて十分鬼畜で悪趣味で、意図的に露悪的だった記憶があるのだ。

なお『完全自殺マニュアル』がベストセラーとなったり、渋谷系の音楽が次々とチャートインするなどすぐそこにサブカル文化の入り口はあり、私の生活からいわゆる90年代サブカル、そして悪趣味や鬼畜を押し出したディープな世界まではグラデーションに繋がっていた。ただし、この記事は90年代のサブカルについての話ではない。

1990年代の、サブカル趣味よりさらに二件隣ぐらいの距離感にあった悪趣味、鬼畜系を押し出したサブカル世界について興味がある方には、その文化に生きていた香山リカ『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー -根本敬論-』やロマン優光『90年代サブカルの呪い』などの著書、あるいは雨宮処凛のブログ(「90年代サブカルと「#MeToo」の間の深い溝」)などをおすすめするし、90年代のより広く鋭いテレビ論評を読むなら、ナンシー関のエッセイ『テレビ消灯時間』をおすすめしたい。

例えばバラエティ。1989年に始まった『とんねるずのみなさんのおかげです』『~みなさんのおかげでした』(1988~2017)ではゲストの女性へのセクハラが茶飯事であり、ストーカーや男性同性愛者を無神経に茶化したキャラがおなじみとなった。

『ダウンタウンごっつええ感じ』(1991~1997)は回を重ねるにつれ下品さが増し、“いじり”が暴力的だったことも記憶に鮮明である。そして『ビートたけしのお笑いウルトラクイズ』(1989~1996)。これは芸人を逆バンジージャンプさせその勢いで全裸にするなど、怪我の恐れもある過激ネタが売りだった。

1990年代後半になると『進め! 電波少年』『進ぬ! 電波少年』(1992~2002)が、アポなし企画とドキュメンタリータッチと合わさり、猿岩石のヒッチハイクなど、出演者らの危険な行動を感動と交換する手法で人気を博す。一方長くフジテレビの看板となる『めちゃ×2イケてるッ!』(1996~2018)は長い歴史のなかで様々なコーナーや企画があったが、THE STAMP SHOWや爆裂お父さんなどいくつかのものは、暴力性やハラスメントが笑いどころであった。

なお、これだけはどうしても記しておきたいが、1990年代前半は麻原彰晃こと松本智津夫元死刑囚がテレビに風変わりなおじさんとしてバラエティにたびたび出演していた。オウム真理教の事件が発覚する前だったとはいえ、1990年代の教訓として、地下鉄サリン事件が起こるまで、オウム真理教は文字通りネタとして文化のなかで消費されていたことを、私たちは決して忘れてはいけないと思う。

90年代のドラマもまた記憶に残っている。「ジェットコースタードラマ」と呼ばれ精神崩壊や死体損壊など過激な展開が売りだった『もう誰も愛さない』他二作(1991~93)、過度に強調されたマザコンやストーカー行為が描かれ、冬彦さんが流行語となった『ずっとあなたが好きだった』(1992)。

『悪魔のKISS』(1993)は社会の暗部に切り込む形で、女性三人が地獄に陥る様を過激な描写で見せるドラマだ。また『ポケベルが鳴らなくて』(1993)や『失楽園』(1997)などのような不倫ものでなくても不倫する女性キャラがよく出てきたし、強姦(未遂)や自殺(未遂)、ストーカー行為もまた設定として良く使われていた。

そして90年代といえば野島伸司ドラマの時代であった。『高校教師』『ひとつ屋根の下』『家なき子』『この世の果て』『人間・失格』『聖者の行進』と次々とヒット作を連発。いずれも社会派と呼べる題材だが、一方で暴力や虐待、いじめ、近親相姦、強姦に自殺など、深刻で悲劇的な不幸が頻繁に描写されていた。

当時の高視聴率ドラマ一覧を見ると、90年代前半は恋愛、ホームコメディと並んで不幸ものが多く、90年代後半になると次第に障害や難病を乗り越える純愛ものが混在していくのが見て取れる。それを社会派や人間ドラマとして捉えるかは当時見ていた人と、いまの時代の感性から見る人とで意見も分かれるだろう。しかし、いま振り返ってみると、ショッキングそしてセンセーショナルなものに見えるのは確かだ。

他にも音楽番組を見れば『うたばん』(1996~2010)での女性アイドル、特に一部メンバーへの扱いはセクハラといじめそのものであったし、『HEY!HEY!HEY! MUSIC CHAMP』(1994~2012)では泥酔した女性をそのまま部屋に持ち帰る男性アーティストのトークが鉄板ネタとしてお茶の間に流れたこともある。

最近まで地上波で放送していた『噂の東京マガジン』(1989~2021)の一コーナー「やってTRY」は、今でこそあからさまにミソジニーな企画として知られているが、1990年代前半は私含め男女問わず楽しみにしている人が少なくなかった。

そして90年代も半ばを過ぎ、世の中の空気が変わる頃からは女子高生ブームが盛り上がった。スカートを短くしメイクでアゲる女子高生たちがマーケティングの中心になる一方、「自らの意思で身体を売る」女子高生の自己決定権に注目が集まる。そして「小遣い稼ぎのために援助交際する未成年」という図式に沿って、夕方のニュース番組はたびたび渋谷の女子高生を取り上げていた。当時を覚えている中高年の人のうちの一部は、いまだこの「若い女性の自己決定権」のイメージから抜け出せないままだ。

ひとりひとりが時代と社会を作っていく

テレビを含むメディアというのは、世論を一方的に作るだけではない。テレビ番組は視聴者に影響を与えブームを作るが、一方で視聴者に求められない番組はすぐ打ち切られるため、時代の空気や視聴者の求めるものに制作側は敏感になる。

メディアが放送する、視聴者が見て楽しむ、視聴率が上がる、さらなる視聴率を狙ってメディアが製作する……という相互の循環から、社会の空気がテレビに反映されていく。

「いじり」と言い換えられるハラスメント的芸風や、「身体を張る」という言い回しで肯定される不謹慎で過激なバラエティ、センセーショナルで暴力的なシーンが多かったドラマ。1990年代はそれらがウケたし、尖っていたし、時には社会の建前的な偽善にカウンターを食らわせる手段だという空気もあった。

当時気付いてなかった、あるいは気にしていなかった、関わってない。だから「悪趣味にも鬼畜系にも私は関わってない」と私自身もどこかで思っている。でも、社会が悪趣味や露悪への慣れに覆われていた時代を私は過ごしたのだ。

90年代の延長線上にあるいま

1990年代はこのような時代だったが、だから「仕方ない」と言って片付けるのも過去の切り捨てになってしまう。なぜ昔は社会として気付かず、気にしなかったのか。そのことを常に考え続けることで、よりましな社会に繋がっていくはずだ。

社会とは直線で前に進むひとかたまりのものではなく、無数の断片の運動が無限に続き変化しつづけるものという見方がある。その見方を借りれば、2021年の今は、1990年代から直線に前進したものというより、1990年代から形を変えた地続きである社会と言える。

1995年あたりから徐々にサブカルの中心は秋葉原とオタクカルチャーへと移った。そして1999年に誕生した2ちゃんねる(現:5ちゃんねる)がオタクカルチャーの一部となると、2ちゃんねるや2006年スタートのニコニコ動画などに悪趣味な言葉や露悪的な態度が剥き出しの形で現れ、エコーチェンバー現象を起こしながらやがてサイトの外へとあふれて、冷笑的なしぐさやさまざまな差別をフランクに行う層が可視化されるようになる。

YouTubeやSNSで迷惑な行為をする人たちの動画にはドキュメンタリータッチのバラエティの手法がどこか重なる。先日メンタリストを自称するタレントのYouTube動画が炎上したが、一部のインフルエンサーと呼ばれる人たちがくり返し口にする差別的、露悪的な言動は、小山田圭吾の『ロッキンオンジャパン』のインタビューのように、いまもなお気付く人たちが声を上げるまでは流されていき、問題としてなかなか可視化されない。

また1980年代からサブカル女子たちの「私が好きなものが好き」という消費を肯定してくれた『Olive』は、90年代から徐々にナチュラルテイストのまま、賢く「ていねいな暮らし」志向へと視野が広がっていく。

その「ていねいな暮らし」は、80年代の「おいしい生活」「ほしいものが、ほしいわ」というセゾンの広告コピーに誘導された、消費行動により文化的に豊かで素敵な生活が実現するというビジョンと重なり、そして21世紀になり、特に東日本大震災以降は、生活のたのしみのため自分で自分の機嫌を取るという形の消費トレンドや、誰も責めず怒らない、という政治的に漂白された姿勢として表れているように思える。

このように、1990年代にあったものはいまもさまざまに形を変えてこの社会にある。

しかし、形が変わるというのは希望がある話だ。

例えば1990年代から今日のテレビ番組を比べてみると、社会は少なくとも暴力に反対しマイノリティへの認識が増す方向にアップデートしつつある。

最近のお笑いをはじめとしたバラエティは、ハラスメント的芸風の「いじり」より話芸やシュールさ、そしてゆるく素朴な楽しさに軸が移りつつあり、もう芸人が身体を張ることは必須でなくなっている。ドラマのテーマは1990年代後半から幅広くなっていき、社会派ドラマもセンセーショナルさやバイオレンスさよりリアリティを重視する方向である。なにも教えずに料理を作れない女性を笑うことのおかしさに気付く人も増え、そして女子高生は未熟な子供として保護されるべき存在へと見方が変わった。

これらは(社会学者の韓東賢氏が「社会的な望ましさ」と訳した(※))ポリティカルコレクトネスがテレビ業界に浸透したというよりも、この三十年で社会がハラスメントや女性、マイノリティの人権に対して耳を傾けるように変化し、その変化にテレビが呼応した結果が表れ始めているのではないか。社会は必ず、絶えず変化をするのだから、その変化がより良くなるよう、小さな力でも動くことは出来るはずだ。

社会で起きていることを他人ごとにしないために

私もまだ山のように気付いてない、気にしていないことがあって、そのうえでテレビを見て笑っているのは変わらない。しかし、個人が無関心であることは、社会やその問題と無関係であることを意味しない。

もちろん人間はすべてに関心を持つことも、すべてに気を配ることも不可能だし、社会の責任を一個人で持つわけにもいかない。大事なことだが、なにかに対して個人が出来ることは、それほどない。

しかし、気付き、声を上げたり、踏まれた人のそばに立つ人が増えるほど、社会は少しずつ変化していく。1990年代にもそうしている人がいた。いまもそうしている人がいる。テレビ番組を見ているうち、ある日同じことに笑えなくなった自分に気が付いた人もいる。

そうして気付いていなかった、気にしていなかった、無関心であった何かに気付いたとき、せめて「仕方なかった」と言わず、はなから他人事にしないようにする。

そこから始めていけば、きっと5年後、10年後、30年後の世界の変化が、よりましになっていくのではないかと、私は最近考えている。

https://news.yahoo.co.jp/byline/hantonghyon/20210501-00233314

執筆=いずみのかな

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