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インターネットとフェミニズムに関する発信をするメディアです。

Sisterlee(シスターリー)は、インターネット上の様々な趣味のコミュニティでフェミニズムが話題になる状況に焦点を当てたいと考え、編集人の妹が個人で立ち上げたメディアです(開設当初の媒体説明はこちらから)。

現在はきな粉、kobin、工場、たぬきが編集部に加わり、5人で運営しております。2020年12月12日にnoteからMediumにサイトを移転しました(移転の理由はこちらから)。今後は新規記事をMediumに掲載しつつ、旧サイトの記事もときどきMediumにアップしていきます。noteはアーカイブとして残す予定です。

私たち5人にとって、フェミニズムへ興味を抱いたきっかけはインターネットでした。インターネット上でフェミニズムについて発信するSisterleeが、誰かにとってフェミニズムに興味を抱いたり、関心を深めるきっかけとなることを目標に、今後もサイトを運営できければと思います。

また、近年、フェミニズムの名のもと、トランスジェンダーの人々をフェミニズムから排除する動きが目立ちます。私たちはそういった動きに断固反対するとともに、「女性」の中にある多様性に向き合う発信もしていければと考えております。

寄稿者の皆様や取材協力者の皆様、読者の皆様のおかげで継続的に更新できております。改めて深く感謝申し上げます。今後もご愛顧のほどよろしくお願いいたします。

2020年12月12日 Sisterlee編集部一同

※工場が編集部に加入したため、加筆しました(2021年5月21日)。


Unsplashより

Produce 101JAPAN season2通称日プでの人種差別発言と、その後の運営の対応に批判が集まっている。

Produce 101は視聴者が投票で101人の練習生から選んだ上位11人からなるアイドルグループのメンバーの座をかけたサバイバルオーディション番組だ。韓国発祥でwanna one、I*ZONEなど大人気グループを生み出し、日本版は通常“日プ”と呼ばれている。前回のシーズン1ではJO1を輩出した。

今回、番組が作りたいアイドルグループに掲げるコンセプトは前回と同じく「グローバルボーイズグループ」だ。

season2公式ホームページの番組紹介にはこう記されている。

“音楽は国境、言語に関係なく、世界が一緒に楽しめるもの。

PRODUCE101 JAPANを通じて誕生するボーイズグループが、世界中で飛び立つことができるよう、グローバルな要素を導入します。”

今シーズンは番組本編に参加できる60人中6人が海外にルーツを持つ(注1)。

・飯沼アントニー …… フィリピンx日本

・ヴァサイェガ光 …… イランx日本

・許豊凡 …… 中国

・テコエ勇聖 …… ナイジェリアx日本

・仲村冬馬 …… インドネシアx日本

・松本旭平 …… 韓国x日本

注1……公表している練習生のみ

番組側がいう“グローバルな要素”が練習生≒デビューメンバーのルーツを内包し、人種/民族的representationで得られる国際的なファンダムをも含むこと推測した人は多い。

こう仮定した場合、この時点では練習生のルーツを使って海外のファンを得るという運営側の目論見は成功していたであろう。かくいう私と友人も、自分と同じルーツのミックスの練習生の出演をきっかけに番組を追い始めた視聴者だ。

そんな多様な日本社会を反映した練習生たちが集まり、“グローバルボーイズグループを作る”と謳う番組で、日本以外のルーツを持たないと推測される練習生からミックスの練習生に対する差別発言があった。

この発言をめぐり人種差別への批判と「悪意がないので差別ではない」、「差別差別という方が被害者を見下している」という擁護派の間で論争が起きた。

「俺たちと違う」「髪を…」差別発言の経緯

発言の内容やその後の経緯は以下の通りだ。

批判が集まったのは、5月7日に公開された、2人組の練習生が舞台裏トークをする動画内での髙塚大夢の発言だ。以下問題となったやり取りを抜粋する。

「ここだけの話はありますか?」という質問に対し:

髙塚大夢:テコエくんの話を聞くたびに、テコエくんの髪の毛を一本抜きたい(笑)。

高橋航大:何でですか?

髙塚大夢:いやなんかすごいさ、俺たちと違うじゃん。異国の血が混ざってるというか。すごいチリチリだから。どうなってるのかな。ちょっと触りたい。

批判を受け、公開から3日後、運営は番組ホームページに謝罪文を掲載し動画を削除したものの、TwitterやInstagramへの謝罪文の掲載やリンク貼り付けはなかった。また、髙塚本人からの謝罪声明もなかった。


現在放送中のドラマ『大豆田とわ子と3人の元夫』第6話にて、多くの視聴者が驚く衝撃の展開があった。主人公・とわ子(松たか子)の親友として存在感を放っていた「綿来かごめ」(市川実日子)というキャラクターが、突然死んでしまったのだ。

第7話では、かごめの死から一年経っても悲しみが癒えないとわ子の姿が描かれた。しかし一方で、とわ子と元夫たちとの関係には変化が生まれ、新キャラクターの小鳥遊ととわ子の関係が進展する回でもあった。親友の死を通してとわ子の心境や環境が変わり、恋愛ドラマとしての展開を見せたのである。

ドラマとしてよくできている面白い回だったが、私はかごめが死んでしまったことに、まだ納得できないでいた。もちろん、身近な人の死が突然訪れることは現実世界でもよくあることなので、その点に引っかかっているわけではない。

納得できないのは、かごめが「社会的マイノリティ」と受け取れるようなキャラクターだったにも関わらず、物語から簡単に退場させられてしまったことだ。

かごめはとわ子とは「違う」キャラクター

第6話で衝撃的な死が描かれる前、第4話でかごめのキャラクターが掘り下げられ、以下のセリフが話題を呼んだ。かごめが自分に好意を寄せる男性からの誘いをすっぽかした後、とわ子に対してその心情を語るシーンのセリフである。

「五条さんのことはね、残念だよ。好きだったしね、好きになってくれたと思うしね。でも恋愛はしたくないんだよ。この人好きだなあ、一緒にいたいなあと思ってても、五条さん男でしょ、あたしは女でしょ、どうしたって恋愛になっちゃう、それが残念。別に理由はないんだよ。

恋が素敵なのは知ってる。キラキラってした瞬間があるのも知ってる。手を繋いだり、一緒に暮らす喜びもわかる。ただただただただ、恋愛が邪魔。女と男の関係が面倒くさいの。あたしの人生にはいらないの。

そういう考えがね、寂しいってことは知ってるよ。実際、たまに寂しい。でもやっぱり、ただただそれが、あたしなんだよ」

このセリフを聞いて「かごめはアセクシャル/アロマンティックなのではないか?」と捉える視聴者は多くいた。SNSでは「恋愛はしたくない」「恋愛が邪魔」と語るかごめに共感する声や、アセクシャル/アロマンティックと思われる人物が、地上波テレビドラマのメインキャラクターとして登場することを喜ぶ声も上がった。

ちなみに同じシーンで、かごめは以下のようにも語っている。

「じゃんけんで一番弱いのが何か知ってる? じゃんけんで一番弱いのは、じゃんけんのルールがわからない人。あたしには、ルールがわからないの。会社員もできない、要領が悪いって言ってバイトもクビになる、皆が当たり前にできてることができない。あたしから見たら、全員山だよ。山、山、山、山。山に囲まれてるの。あなたは違うでしょ」

かごめは、他者と同じようにできない「生きづらさ」を、これまでの人生で強烈に感じてきた人物なのである。「私もあんたを囲んでいる山なの?」ととわ子が聞いても、かごめは笑うだけで答えない。

3人の夫と結婚して離婚して、それでもまだ恋愛への関心を失わない、仕事では社長にまで上り詰めたとわ子の存在は、かごめにとって誰よりも近くて高い山に見えたかもしれない。かごめはとわ子のようにはなれない。二人は仲の良い幼馴染でありながら、全く「違う」存在なのである。

ちなみに『大豆田とわ子と3人の元夫』には、安定した仕事に就いていてお金に不自由していない「上流階級」的な登場人物ばかり登場する。広くておしゃれな部屋に住んでいる、社長・大豆田とわ子も例外ではない。

そんな作品にかごめのような強い「生きづらさ」を抱えたキャラクターが登場すれば、当然視聴者の共感を呼ぶ。マイノリティ属性をもつ彼女はこれからどんな風に描かれるのか。皆の注目の的だった綿来かごめは、第6話の中盤で突然死んでしまったのだ。

かごめの死はどんな意味を持ってしまったか?

かごめの死は、ただ「衝撃的な事実」として間接的に視聴者に知らされた。第7話までの時点では、苦しむ彼女の表情や遺体すら画面に映っていない。だから、あまりにもあっけなく物語から退場してしまったという印象が大きい。現時点では「物語の進展のために一人のキャラクターが簡単に殺されてしまった」と受け取らざるを得ないのが、正直なところである。

アセクシャル/アロマンティックととれる発言をしていたキャラクターの死がきっかけとなって、ヘテロセクシャルの登場人物たちの恋愛ドラマが進んでいく。正直言って、これはとてもグロテスクな構図だと思う。

私たちが生活するこの社会には、まだ「異性と恋愛して結婚するのが当たり前」という規範が存在している。かごめのように「恋愛はしたくない」と、一人で生活を続ける人間(特に女性)は、いないものとして扱われたり、規範に沿わない存在として疎外されることも珍しくないだろう。

それなのに、恋愛が主題のドラマにアセクシャル/アロマンティック的なキャラクターをあえて登場させた上で、よりによって死なせて退場させることは、作り手の意図に関わらず、現実の排除をなぞって規範を強化する表現になってしまっている。

とわ子とは「違う」かごめの死をきっかけに、ドラマ後半でとわ子が元夫との関係を修復させたり、新しいキャラクターとの恋愛を成就させたりするのであれば、それはマジョリティに都合の良い展開だし、マイノリティを酷く踏みつけていることになるのではないだろうか。

マイノリティを表象することの責任

もしかしたらドラマの作り手側には、かごめがアセクシャル/アロマンティックであると描いたつもりはなかったのかもしれない。仕事や恋愛に縛られない特別な存在として描き、そんなかごめを失うことによって、とわ子の孤独を強調したかっただけかもしれない(現に、第7話では娘の唄(豊嶋花)までもが、進学でとわ子の元を離れていき、とわ子は孤独感を強める)。

しかし、私が重要だと思うのは、かごめがアセクシャル/アロマンティックとして解釈した、あるいは期待した視聴者が大勢いた点である。

現状、異性愛者の恋愛ドラマは山ほど存在するが、セクシャル・マイノリティを描いた作品はまだまだ数が少ない。セクシャル・マイノリティに限らず、マイノリティの集団に属する人間は、フィクションの中で自分の居場所を見つけることがとても難しいのである。アセクシャル/アロマンティック当事者の場合ももちろん同様だ。

そんな状況の中で、やっと共感できるキャラクターに出会えたと思ったら、突然あっけなく退場させられて、しかも異性愛者のドラマを進展させる舞台装置のように扱われているのを見たら、どう思うだろうか。改めて社会から切り離されてしまったように感じるのではないだろうか。

今回の件で、視聴者がかごめをアセクシャル/アロマンティックと受け取る可能性を、作り手が想定できていなかったのであれば、それは無知や無理解が原因だ。そして、無知や無理解が生まれてしまったのは、アセクシャル/アロマンティックについて描いた表現が世の中にまだ少ないからだ。

だから、たとえ作り手に「そんなつもりがなかった」のだとしても、今後同じようにマイノリティを踏む作品が生まれないように、批判の声を挙げることは重要だと思う。かごめに共感したり、共感する可能性のあった、当事者を置いていかないためにも。

今後のドラマ展開に期待すること

今回の記事は批判的な文脈で書いたが、『大豆田とわ子と3人の元夫』には「いいな」と思えるポイントもたくさんある。特に、とわ子と元夫たちの不思議な関係を通じて、恋愛・結婚以外の男女の繋がり方を提示してくれるのでは、という点に期待している。かごめの死を乗り越えたとわ子は一体どんな人生の選択をするのだろうか。

ただ、この記事を書きながら気づいたのだが、『大豆田とわ子と3人の元夫』のキャッチコピーは、「ひとりで生きたいわけじゃない。」なのか。

まさかそんなことはないと思いたいけれど、ラストでとわ子が恋愛的なパートナーシップを誰かと結んで、「やっぱり誰かと生きていきたい」と納得する、恋愛至上主義的なオチになったらどうしよう。そうなれば、一人で死んだかごめの存在が、より否定されてしまうのではないだろうか……。

かごめを死なせたドラマに対する不信感を拭うことはできないが、表現の着地点を見届けるためにも、引き続きドラマ視聴を続けようと思う。

執筆=たぬき
画像=Unsplashより


Photo by bantersnaps on Unsplash

「海外のドラマと比べて、日本のドラマは……」という言葉に触れるたびに、何とも言えないモヤモヤに襲われる。

もちろん使い古された表現をただ使い回しているだけのドラマも、無自覚に偏見差別を再生産しているだけのドラマも、いまだに毎クール見かける。そんな「日本のドラマ(ひいてはテレビ)」にこれまで何度も失望させられてきたことも、痛いほどわかる。

しかしそういった壁によって、「日本の良作ドラマ」が本来届くべき人たち、ドラマを観て面白がってくれるであろう人たちに届いていないことに、いち視聴者として勝手に歯痒さを覚えている。

そんな、わざわざテレビを点けて日本のドラマなんか観ないという人にこそ、今観てほしいドラマがある。

それは、NHKの土曜ドラマ『今ここにある危機とぼくの好感度について』(以下『ここぼく』)だ。『ここぼく』は、大学の広報課職員である神崎真(松坂桃李)を主人公に、国立大学「帝都大学」に起きる数々のトラブルに、彼が四苦八苦しながら対応していく姿が描かれる。

テレビの前で『ここぼく』を観ながら、私は『ワンダーウォール~京都発地域ドラマ~』(2018年)を思い出す。

『ワンダーウォール』は、『ここぼく』と同じくNHKによって制作放送され、渡辺あやが脚本を手掛けた、大学を舞台にしたドラマだ。

京都の歴史ある大学「京宮大学」を舞台に、自治寮「近衛寮」に暮らす学生たちを中心に据え、老朽化を理由に寮の建て替えを進める大学側との対立を描いている。

軽く書き出しただけでも両作の繋がりが見えるが、その共通点だけではなく相違点についても見ていきたい。

「代替可能な駒」である末端の人々

『ワンダーウォール』では、寮の取り壊しに反対する学生たちが、抗議のたびに毎回大学の学生課窓口を訪れる。ある日、いつものように学生たちがその窓口に行くと、それまで学生たちの抗議を窓口で塞き止めていた中年の女性職員が姿を消し、若い女性職員に代わっていた。

そのとき、学生たちは窓口の職員の多くが非正規であること、自分たちが「敵」だと見なしていた相手が、組織においては「代替可能な駒」に過ぎず、構造的には弱い立場であることに気付く。そして、このまま抗議を続けていても、自分たちが大学において実質的な権力を持つ相手には会えない(大学側が会わせる気がない)ことを突き付けられる。

組織や構造において、末端にいる存在が代替可能で軽んじられていることは、『ここぼく』でも描かれている。

主人公の神崎真は、母校である帝都大学の広報課に転職するためにアナウンサーを辞めるが、そのポジションはすぐに後輩のアナウンサーに取って代わられる。転職先である帝都大学においても、5年の有期雇用の職員である神崎は代替可能な存在だろう。

神崎と同じく有期雇用の非正規として、帝都大学で働くポスドクの木嶋みのり(鈴木杏)も、その雇用期間の終わりが迫る中、研究室の上司であり、ノーベル賞候補とも目される大学のスター教授でもある岸谷教授(辰巳琢郎)の研究不正を告発する。それを受けて、大学の理事たちは彼女の口を封じるために、助教のポストを用意し任期終了後の「雇用」をチラつかせる。しかし、みのりはその誘いを蹴って、帝都大学を去る。彼女も、組織ひいては社会の末端にいる代替可能な存在として描かれる。

権力者も代替可能であること

一方、『ここぼく』では、権力者の代替可能性についても描かれている。

第3話では、帝都大学100周年記念のイベントが、ネット上のデマの拡散と大学への「電凸」、そして爆破予告の脅迫状が送られてきたことによって、中止に追い込まれる。

いつも周囲の理事たちの意見に身を任せ、自らの意思を押し通すことのない三芳総長(松重豊)は、ここでも理事たちの意見に合わせて、イベント中止の決定を下す。その後、総長は外国人特派員協会で、イベント中止についての会見を開くこととなった。

総長は、どんな質問を聞かれても、事前に神崎から「リスクマネジメント」として伝えられた通り「学生と来場者の安全を守ることが大学の責務」としか答えない。しかし、その会見の最後、かつての教え子である外国人記者のある言葉に触発され、自分の言葉で語り出し、ついには中止になったイベントを一転開催すると宣言する。

傍から見ると、総長は大学外部からの圧力や大学内部の事なかれ主義を跳ね返し、大学の自治と表現の自由を守った「英断」を下したかのように見える。

しかし、神崎(と視聴者)のそんな淡い思いは、すぐに打ち砕かれる。厳戒な警備態勢の中で開かれることとなったイベントの直前、神崎と三谷准教授(岩井勇気)、室田教授(高橋和也)は、こう語り合う。

三谷准教授「今回の件でわかったと思うけど、本当は帝都大における総長の決定って絶対なんすよ。実は圧倒的な権限が総長には与えられてんすよね。でも三芳さんがそれを一切行使せずにきたのは、そういう独裁的な体制を作りたくなかったからじゃないのかな。」

神崎「でも、三芳総長の独裁なら、俺大歓迎だけどな。」

三谷准教授「いやいや、いつかは総長、次の人に譲ることになるわけで、そいつが国とか財界に忖度しがちなやつだったら、言われるがままに運営されることになるよね。」

神崎「ああ、そっか。」

三谷准教授「次期総長狙ってる須田さんなんかは、そういう独裁的な体制を強化したいんじゃないかな。そうすれば、自分が総長になったときに、国とか財界の求める大学改革を進めていけるから。」

室田教授「そっかあ、なるほどな。皮肉にもこの多様性のためのイベントは、総長の独裁体制を誕生させてしまったってことか。そんなの全然わかってなかった。」

総長が下した「英断」は、結果的には独断で強行突破したものであり、それはこれまで彼が使わずにいた「総長の強権」に再び力を与えることになった。

ドラマ内でも示されているように、形式的であっても総長の独裁体制・強権体制が形成されたことは、一時的には何のデメリットもなく、むしろ「良いこと」として扱われるかもしれない。しかし、今後総長になる人によっては悪用されかねないのだ。

同時に、「大学」という組織や構造のトップにいる学長でも代替可能であるということは、その交代が現状維持だけではなく、大学を良くする可能性もあれば、悪くさせる可能性もあるということでもある。

これは社会や政治にも当てはまるだろう。権力者を変えることは、良くも悪くも「現状」を変えることになる(同じような人に交代し、同じような政治が続くこともあるが……)。そして、その「変化」は、選挙権を持った人々による投票行動だけではなく、さまざまな人々の「行動」によってもたらされる。

「役に立たない」ことの価値

また両作は、すぐに利益になるもの、すぐに役に立つもの以外を無価値と見なして軽視し切り捨てることへ、明確に抗おうとしている点でも共通している。

『ワンダーウォール』では、老朽化した学生寮を取り壊し、国が推し進めたい医学部か工学部の新たな講義棟を建てることで、国からの予算を獲得しようとする大学を、何の「生産性」もない生活を営む、その寮で暮らす学生たちの視点から描く。

『ここぼく』でも、第1話で木嶋みのりがお金のことばかりに躍起になって(ならざるを得ず)、いびつに歪んでしまった日本の科学研究に、あるべき姿に戻ってほしいと語る。

第3話では、総長が「大学が政府や企業の専用研究所になってはいけない」と語る。その理由がわからなかった神崎が、総長の旧友でもある水田理事(古舘寛治)にその理由を尋ねると、次のように答える。

水田理事「要するに、この世界というのは、人間の想像をはるかに超えて複雑であり、将来どの研究が人間の役立ったり、危機を救うかなんて、絶対予測でけへん。けど国も企業も、そんなことよりもっとすぐ金になるような研究を大学にさせたがるし、いつ役に立つかわからんような研究は無駄無駄言われて、どんどん消えていく。ぶっちゃけこれは相当やばいことやとは、学者はみーんな内心思おてんやが、世間が思おてくれんもんで。」

こうしたすぐに利益が出るもの、すぐに役に立つもの以外を「無価値」と切り捨てる価値観は、ドラマの中だけのものではない。

テレビ信州制作のドキュメンタリー『カネのない宇宙人 閉鎖危機に揺れる天文台』(2019年)では、国からの運営交付金が年々減らされていく中で、規模の縮小や人員削減を余儀なくされ、これまで距離を置いてきた軍事研究を検討せざるを得なくなる「国立天文台 野辺山宇宙電波観測所」が取り上げられている。

その中で、元所長の一人が「予算要求のときに、必ず聞かれることがあるんですよ。『何の役に立つんだ?』って。もっと酷いのは『いくら儲かる?』って。」と語る。即時的な利益や生産性を優先する価値観が、根深くあることを示す印象的な言葉だった。

こういった視線が向けられているのは、国立の研究機関だけではなく、大学はもちろん、博物館や美術館、図書館などの公的な組織や施設、ひいては社会全体だろう。両作では、社会に広がるそんな「視線」を可視化させる。

『ここぼく』の最終回では、それまで「何の役にも立たない」かのように見えていた足立准教授(嶋田久作)の昆虫研究が、大学の危機を左右する重要な局面で、その解決を導き出すような役割を担う。

総長も、理事たちの前で「大学は営利団体ではない。真理探究の場であり、研究機関です」と、力強く宣言する。

すぐには「役に立たない」基礎研究の重要性と、大学が「役に立つ/役に立たない」という尺度から距離を置くことの意味が、改めて明確に示される。

さらに、『ここぼく』では、さまざまなトラブルが起きるなか、何があっても大学を擁護し、理事たちにも良い顔をして、無理矢理な指示にも従う神崎が「役に立つ男」であろうとするかのように見える。「好感度」を高く保とうと、意味のあることを言わずに、誰からも好かれようと振る舞うことも、他者から「価値のある存在」として認められるという点で、利益や生産性を重視し優先する価値観と地続きだろう。

しかし、神崎は「役に立つ男」であろうとすることに、次第に違和感や息苦しさを覚えるようになる。この神崎の葛藤は、回を重ねるごとに自分で考え、自分の言葉で語ろうとする姿勢となって現れてきているが、役に立つ/役に立たないという尺度からの脱却にも繋がっていく。

最終回では紆余曲折しながらも、同僚や理事たちからの自分自身の「好感度」も、世間から大学に対する表面的な「好感度」もかなぐり捨てて、神崎が「自分が正しいと思ったこと」のために、思い切った行動に打って出る。

複雑な日本社会に生きる「神崎真」として

『ワンダーウォール』も、『ここぼく』も、大学という限定されたコミュニティを通して、広く社会全体に接続する問題や構造を描いている。

複雑な社会を、誰にでも「わかりやすく」単純化すべきではないし、両作もそういった「わかりやすさ」至上主義に抗っている。『ここぼく』では何度も「世界は複雑である」と明確に言葉にしているし、『ワンダーウォール』では大学職員と学生、学生同士など、さまざまな関係や距離感が、複雑なまま描かれている。

その一方で、両作が「わかる人」だけで、その内容が共有されて終わることに、複雑な気持ちもある。単純に「この面白いドラマを、より多くの人と共有したい!」という思いもあるが、それだけではない。

第4話で、新種の蚊に刺され、強いアレルギー反応に見舞われた神崎は、国も関わる大学肝いりのイベント「次世代博」のために、それを隠蔽しようとする大学理事たちを目の当たりにし、これまで抱いていた違和感が確かなものとなり「目覚めていく」。

「新種の蚊」による混乱を機に、神崎が「目覚め」、理事たちによって隠蔽された「真実」は自分の手で探し出さないといけない、自分の頭で考えて行動しなくてはいけないと決意するというストーリーは、今と重なる部分があり印象的だ。

一方で、その「今と重なる部分」であるCOVID‑19のパンデミックや、アメリカ大統領選の混乱などを背景に、「陰謀論」が力を増している中で、「隠された真実」や「目覚める/覚醒」という言葉の取り扱いには、慎重さが求められるだろう。

限られた「わかる人たち」の中だけで、一つの「何か」が共有されて盛り上がっていくことには、タコツボ化してしまわないかという危惧もあるし、限られたコミュニティで物事が完結していくことに一種の「限界」も感じている。

ドラマを、現実に材を取った風刺として完結させ、無意識のうちに現実から切り離してしまうのではなく、「現実に生きる私たち自身の物語」として読み直すことが必要なのではないだろうか。

総長が最終回で「問題には正しい名をつけなければ、それを克服することはできない」と語っていたように、この社会には、まず「正しい名前」を付けるところから始めなければならない問題が溢れている。

『ワンダーウォール』ではドラマの終盤、中年の女性職員の代わりとして働く若い女性職員が、寮の取り壊しに対する反対運動の中心的な学生の姉であり、同じ京宮大学の卒業生でもあると明かされる。それは、その「女性職員」が「学生たち」であったかもしれないと示唆しているように感じられた。

神崎真も「私たち」自身だと思わずにはいられない。

両作が、抗うべき相手は実際に権力を持つ人間だけではなく、この社会全体を包む「空気」でもあるのだと示しているように、私たち自身の中に潜んでいる「神崎真」に目を向けなければならない。

執筆=おなか
画像=Unsplashより


金曜ロードショーが二週に渡って映画「タイタニック」を放送し、話題となった。

おさらい程度に述べておくと、「タイタニック」はジェームズ・キャメロン監督・脚本による1997年のアメリカ映画で、主演はレオナルド・ディカプリオとケイト・ウィンスレット。タイタニック号沈没事故の史実を、架空のラブストーリーを主軸にして描いた長編作品だ。公開当初は社会現象を起こすほどの大ヒットを飛ばし、興行収入は日本だけでも262億を売り上げた。

金ローでの再放送は、ディカプリオ演じるジャック役の吹き替えが円盤未収録の石田彰版であることなども手伝って注目を集めた。

そして映画公開から24年経った今、改めて、或いは初めて「タイタニック」に触れた人々の一部からは「記憶していた作品とは少し違っていた」「思っていた映画じゃなかった」という声が上がった。その言葉の指すところは、ロマンス映画の大御所として知られる名作の類い希なる力強さへの感嘆だ。

「タイタニック」が公開より以降、ロマンス映画の大御所と位置づけられてきた映画であることは間違いない。作中で主軸を置いて描かれる、没落しかかった名家の娘であるローズと貧しい絵描きの青年ジャックの身分差違いの恋のロマンスは鮮烈で、息を呑むほどにロマンティックだ。ロマンスにはあまり食指の動かないタイプの筆者ですら、二人の恋と冒険の様子にはハラハラしっぱなし、強く心臓を掴まれた。

それに加えて、「タイタニック」の卓越した人物描写は、歴史的な群像劇としての誠実さや、パニック映画としての面白さまでもをカバーする。栄光の豪華客船が沈没を迎えるまでの瞬間、瞬間に浮き上がる人間ドラマには、本当に目を見張らされる。極めて、懐の深い名作映画と言えるだろう。

筆者も久々に「タイタニック」を見て、驚いたうちの一人である。個人的な驚嘆の理由は「こんな強いフェミニズム要素を持つ作品だったとは」というものだ。

「女性」であることを理由に貼られるレッテル、奪われる声

特に筆者の関心を惹いたのは、ヒロインであるローズに対する描写の解像度の高さである。ローズは自由を愛し、冒険に憧れる若い娘として登場する。また芸術や勉学への熱意があり、当時無名に近かったモネやピカソの絵画を評価して買い求めたり、フロイトの精神分析学書を読んだりもする。

しかし、劇中では、周囲がローズの情熱や知識に敬意を払うことはない。それどころか、芸術への審美眼はないとされ、嘲笑の対象となっている。彼女が読むフロイトの著作に対しても「変な本」と称され、新しい学問に興味を向けるローズの勤勉さは愚かしさにすり替えられる。

これらの矮小化の理由は、ひとえに「ローズが女性であるから」に他ならない。特に若いローズは、権威主義的な上流社会では「綺麗なお飾り」であることを求められ、更に言うならば「綺麗なお飾り以上の才能は無い」と思われている。


B’zのファンでなく『ultra soul』や『イチブトゼンブ』などのヒット曲数曲しか知らないという人には、B’zは“陽”なイケイケなバンド、あるいは男らしい硬派なバンドだったりするだろうか? しかし実はヴォーカルである稲葉浩志さんの書く歌詞はものすごく陰があって、「男性はかくあるべし」というジェンダー規範から自由だったり、抗っていたりするんだ……

そんなことをツイートしていたらこちらでの執筆の機会を頂いた。筆者は日本社会にある女性への抑圧や男女格差に耐えかねて、数年前から海外に渡って奮闘中のB’zファンだ。稲葉さんの歌詞がいかに“マッチョ”でないかを、「歌の主人公の弱気さネガティブさ」「ジャッジメンタルでなく多様性を尊ぶ姿勢」「生活に根ざし感情を大切にする視点」の三つの観点から話そうと思う。

最初にお断りしておきたいのだが私にとってB’zはアルバムを何枚も持っていて好きなバンドではあるけど、ライブには一回しか行ったことがないしファンクラブにも入っていない。88年のデビュー以来発表されたB’zの約350曲すべて(※1)、それに加えて稲葉さんのソロ曲、ユニット曲全ての把握はできていない …


Unsplashより

「”美白”って何だろう?」

ちょうどそう考えていた時に飛び込んできた、花王の「美白」表現撤廃のニュース。

個人的には花王の取り組みに賛成している。

米国で、スキンケアの勉強を通じて学んだこと

米国滞在歴4年の私は、先日、アメリカのスキンケアカレッジ(エステティシャンになるための専門学校)を卒業し、新米エステティシャン兼メイクアップアーティストとして活動を始めた傍、社会起業家として「美容×SDGs」をコンセプトにSNSなどで情報を発信している。渡米前は美容外科のマーケティング部門に所属し、美容の現場と裏方の両方を経験してきた。

そもそも英語がほとんどできない私が、アメリカでスキンケアの学校に通おうと思ったキッカケは、渡米以降シミが急激に増え、肌の老化を感じ始めたからである。肌の勉強をすることは、今後の人生において自分自身の役に立つと考え、深く考えることなく異国での学校生活をスタートさせた。

卒業した今感じるのは、肌に関する知識を学んだだけではない、という事。

様々な人種が顧客として想定される中で、「乾燥・混合・脂性」などの分類とは別に、人種別の肌の特徴を考慮する必要がある。ちなみにアジア人の肌は、

・センシティブな肌質

・白人と比較すると加齢が目立ちにくい

・張りと弾力がある

・お手入れ(摩擦)によるシミができやすい

と分類されている。もちろん黒人の肌、白人の肌にもそれぞれ特徴がある。

多様な肌質、肌タイプ、肌色がある中で必要とされるのが「バランス」である。いかに黄金バランスに近づけたメイクをするか、いかに肌の色が映えるメイクをするか(どのカラーが馴染むか)といった考え方が根本にあるのだ。

多様性を認める、という意味でも「バランス」はとても重要なキーワードだ。

米国の消費者の「主体的に選ぶ姿勢」

また、アメリカの化粧品は法の規制が緩く、種類も多い。そのため、個人の選択が大切になる。製品を主体的に選ぶためには個々の成分知識が必要となり、結果として日本と比較すると、消費者の知識も豊富で、正確な成分情報が公開されている事も多い。

個人的に意見をディスカッションする場も多く、その中でバランスを重んじ、多様性を認められることになった事は大きな成長であった。

ちなみに、日本で常識となっている「ブルベ・イエベ」の概念はアメリカでは聞いたことがない。おそらくその理由は、「着たいものを着て、使いたいものを使う」と、ファッションやメイクにおいても個人の考えを尊重するアメリカ文化の中で、外部の物差しで分類されることに違和感を覚える方が多く、概念が浸透しないのではないからではないか、と考えている。

以前美容外科で勤務している際に気になっていた事がある。

二重幅についてだ。施術を経験したことがある私個人も含め、要望の多くは「二重の幅を広げたい」「目頭の部分から二重が欲しい(並行型の二重と呼んでいた)」というものであった。

理由としては、“二重の幅が広ければ目が大きく見える”、と考える方が多いからだが、実はこの考えには誤解がある。

実際には「黒目の見える範囲」が目が大きく見えるかどうかに関わっているので、二重幅の広さと目の大きさは比例しない。仮に、二重幅を大きくした事で、黒目の見える範囲が狭くなると眠そうな目となり、むしろ目は小さく見えることになる。

このように本質を知らず(もしくは考えず)にオーダーしてしまうのは何故か? おそらくメディアリテラシーの問題が潜んでいるように思う。また、“自ら調べて考え、その上でアクションを起こす”というロールモデルが少ない事も理由ではないだろうか。

それぞれが自分自身で「正解を考えてみる」事が、この情報社会で正しい知識を身に着けるポイントだと感じている。

「美白」の代わりに、どういった言葉を選ぶか

美白に話を戻してみる。

仮に「美白」という言葉を使わないとした場合、あなたならどういった言葉を選ぶだろうか。

例えばアメリカでは具体的にシミなど部分的には「lighten the dark spots(シミを明るくする)」や、「Remove the dark spots(シミを取る)」などと表現される。

また、理想的な肌の状態を表す言葉として「Bright Skin(明るい肌)」「Glowing Skin(ツヤ肌)」「Healthy Skin(健康な肌)」などと表現するが、韓国のK-beautyでは、そのまま「Tone up(トーンアップ)」と呼ぶこともある。これらは、シミやくすみを軽減し、艶やハリのある肌へと導くアイテムによく使われているため、日本の「美白」に最も近い概念だと考えている。

今回の花王や、2020年夏に発表されたJ & Jの「美白化粧品販売中止」に「敏感に反応しすぎだ」と感じる方もいるかもしれない。

けれど、ぜひ一度本質を考えてみて欲しい。“良い悪い”ではなく、美白とは何なのか、また今自分の肌に求めるものは何なのか、という事を。

少し立ち止まって考えてみる。この行為が日々の選択肢を広げるキッカケになる事を願っている。

・・・

執筆者のRinkoさんが主宰する団体、Clean Beauty Japanのウェブサイトが2021年4月から公開中。

Website: https://cleanbeauty-japan.org/
Twitter: @cleanbeauty_jpn

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執筆=Rinko


Unsplashより

現在28歳で独身のシス・ヘテロ男性であり、これまでに一度も性交渉の経験が無い私は、恐らく世間が言うところの「非モテ男性」に属する。

敢えて明確に書くが、私は異性に対する性的欲求を抱いていて、恐らくそれ以上に恋愛に対する漠然とした憧れを感じてきた。そして10代の中頃から、自分がモテないという現実に悩み、鬱屈し、時には自分の人生に絶望するという「非モテ」に悩む日々が始まった。

ある程度年月が経ち、考え方に様々な変化が訪れた今でも、交際経験が更新されることはなく、気にしないように心がけようと思っていても「非モテ」に苦しめられる瞬間は存在する。

そしてそれは恐らく自分だけではない。特に最近では、「非モテ男性」や「弱者男性」といったワード、そしてそれを支持する動きを目にする機会が増えてきているように感じるし、メディアがこれらのトピックを扱った記事を公開すれば、その内容を巡って大量の意見がSNS上などで溢れかえる。

その背景には、社会構造や制度面など様々な領域におけるジェンダー間の不平等を訴え、是正を求める動きが加速する中で広まっていった”男性には生まれながらにして特権がある”という考えに対するマジョリティ男性側のある種の「戸惑い」や「反発」といった感情があるだろう。

自分の中で「非モテ(≒女性側から必要とされていないという感覚)」に悩んでいるにも関わらず、「特権を持っている(≒女性側よりも優位な立場にある)」という状態にあるというのは、決して居心地の良いものではないからだ。

一方で(あくまで個人的な感覚として)、かといってこのムーブメントに完全に共感するかというと、また微妙なところだったりしている。確かに居心地の悪さは感じているし、これを書いている今も「非モテ」であることに対する漠然とした不安や焦りを抱いている。だが、この感覚を例えばフェミニズムやポリティカル・コレクトネスといった動きへの反動へと変換するのも、それはそれで自分に合っていない、居心地が悪いような感覚に陥ってしまうのだ。

その背景には恐らく、自分がこれまでの人生で熱心に触れてきた「ポップ・カルチャー」が影響しているのかもしれない。何気なく触れてきた音楽や映画や様々な娯楽が、「非モテ」と同様に自分のアイデンティティの一部となっており、これもまた、簡単に剥がれることは無い。

現在の私を形造った、「アイデンティティ政治」の台頭

私の「考え方の変化」に大きな影響を与えたのは、2000年代後半から2010年代前半における欧米を中心としたポップ・シーンでの「アイデンティティ政治」の台頭である。

その象徴的な存在と言えばやはりレディー・ガガだろう。2011年に彼女が発表した「Born This Way」は現代に至るまであらゆるマイノリティにとってのテーマソングのような存在として燦然と輝いている。米国における国民的なイベントである2017年のスーパーボウルハーフタイムショーで同楽曲が次の歌詞も含めて披露されたのは、この「アイデンティティ政治」が根付いたことを象徴する瞬間だったと言えるだろう。

あなたの肌が黒くても、白でも、ベージュでも、ラティーノでも /

レバノン人でも、東洋人でも /

障害があっても、のけものにされても、いじめられたり、からかわれていたりしても、 /

今は祝福を、自分を愛して / だってそれがあなたなのだから /

ゲイでも、ストレートでも、バイセクシュアルでも /

レスビアンでも、トランスジェンダーでも関係ない /

私は正しい道にいる / 生きるために生まれてきた /

(レディー・ガガ「Born This Way」より抜粋)

当時10代後半だった私は、それまでジェンダーや人種について深く考えたことが無く、日本のバラエティ番組などで得た、マジョリティ側にとって都合が良いであろう偏った知識しか持っていなかった。だからこそ当時のレディー・ガガの提示したメッセージは自分にとって新鮮かつハッとさせられるものであり、また、世界中を熱狂させ、同時に大量のバックラッシュを巻き起こす彼女の活動には、明らかにそれまでのポップ・カルチャーにはなかった大きな動きを感じ取ることが出来た。

そのような動きに関心を抱き、欧米を中心としたポップ・カルチャーを追いかけていった結果、そこに込められたメッセージがリアルタイムで自分自身の考え方に影響を及ぼしていったのである。そして、その中には当然「フェミニズム」が含まれる。

2013年、ビヨンセは「***Flawless」という楽曲において、「男も女もみんなフェミニストでなきゃ(原題 : We Should All Be Feminists)」などで知られる作家、チママンダ・ンゴズィ・アディーチェ氏のスピーチ音声を引用し、大々的なフェミニズム宣言を行った。当時のライブパフォーマンスにおいて、彼女はスクリーンに同楽曲でも引用した次の言葉を大々的に映し出している。

「フェミニストとは : 性別間における社会的、政治的、経済的平等を信じる人のことである。」

勿論、それ以前よりフェミニズムに通ずる楽曲は多く存在していたが、当時のポップ・カルチャーの頂点に君臨していた彼女が、当時蔓延していた「Jay-Zを支える妻」や「セクシーなダンスで男性からの性的消費を誘発している」というイメージを正面から破壊したこの行動はシーン全体に絶大なインパクトを与えた。

当時の私も、これらの動きを経て、それまで女性に対して抱いていた先入観やイメージ、そして「フェミニズム」という言葉に対する感覚が変化していくことを強く実感していた。例えば、男友達同士での会話の内容に違和感を感じるようになったり、それまで無邪気に楽しんでいたものに対して「果たしてこれで良いのだろうか」という疑問を抱くようになっていったのである。また、自分自身が「男性である」という特権を有していることにもより自覚的になり、それに対して複雑な感覚を抱くようにもなっていった。

並行して、SNSなどのソーシャル・メディアが普及したことで、これまで無視されてきた怒りの声が可視化され、多く目にするようになったことも大きな出来事だったと言えるだろう。10代後半から20代という多感な時期において、そういった変化を敏感に感じながら、時にはアウトプットをしながら生きてきた結果、今、こうやって依頼を頂いてテキストを書いているのだと感じている。

さて、本来はこれで終われば良いのだろうが、本稿のテーマはそこではない。ここからは、そういった変化を感じながら生きていてもなお“気にしないように心がけようと思っていても「非モテ」に苦しめられる瞬間が存在する”という自分自身と向き合っていく。

様々な要素が絡み合う「非モテ」の悩みの実態

「非モテ」と一言で括ると「あぁ、モテたいってことですね」と短絡的に片付けられるかもしれないが、それに悩む男性が“実際に”苦しんでいる部分は様々であり、かつそれぞれの要素が複雑に絡み合っている。

・「恋愛して結婚して子供を産む」という、現代における一般的な成功のイメージから外れていくことへの不安や焦り

・「恋愛対象から相手にされない」という自らのルックス / 性格 / 職業 / 資産 / etc..に対する自己嫌悪感

・「恋愛経験が少ない =男性的な魅力が無い」 あるいは「性交渉をして初めて一人前になれる」という考え方から生まれる、男性として、あるいは人間としての劣等感

・「恋愛 = 高度なコミュニケーション」と位置付け、コミュニケーション自体に困難を感じる自分自身に対する無力感

・「恋人がいない = 孤独」という前提から生まれる、日々を生きる中で増幅される孤独感

・過去の恋愛経験(交際の有無は問わない)がトラウマとなり、思考がそれに縛られ、以前の生活を取り戻せなくなっているという空洞感

etc…

上記はあくまで筆者自身がこれまでに抱いてきた感情や、同じく「非モテ」を自称する友人のエピソードなどから参照した内容の一部であり、特に男性学における議論などを参照したわけではないことに注意して頂きたい(今回は、なるべく個人的な内容として書いておきたいからである)。

恐らく「どれも当てはまらないが辛い」という人も珍しくないだろう。また、重要なのは、これらの苦しみには「きっかけ」となる被害経験があるという場合も珍しくなく、それこそが問題の本質であるというケースもあるということだ。

「ぼくらの非モテ研究会」を主催する西井開氏は、「非モテ」のきっかけとなる被害経験にはいじめやパワハラ、家庭内暴力など、当事者によって様々な出来事が存在し得ると指摘し、単に「モテないから苦しい」という考えを問題の本質とすることを避け、より本質的な苦しみを紐解くべく「非モテ」を次のように位置付けている。

「非モテ」とは疎外感や被害経験から始まり、それを補うように女性に執着し、その行為 の罪悪感と拒否された挫折から更なる自己否定を深めていくという、様々な出来事と感情が折り重なった現象であり(〈現象(phenomena)としての非モテ〉)、決して「モテない」という一要因から起こっているわけではない。

現代思想2019年2月号 特集=「男性学」の現在――〈男〉というジェンダーのゆくえ. 青土社.

だが、いずれの場合も悩みの方向はあくまで自分自身に向くことになり、相手側=女性側の視点は欠けることになる。そしてこれらの悩みは、様々な外的要因によってより重いものへと変わっていくことが多い。

親族や職場の上司など様々な人物から「いい人はいないのか、いつになったら結婚するんだ」というメッセージを頻繁に浴び、街を歩けば容易にマッチングアプリの広告や「婚活」といった文字が目に入る。

インターネットを開けば恋愛絡みの情報や投稿、芸能人の結婚のニュースやそれを祝うコメントが大量に入ってくるし、そして「恋愛」に幸福を見出す娯楽作品は今もなお跡を絶たず、その中にはモテないことに悩んでいた主人公が、魅力的な異性のパートナーと出会い、人生が逆転していくという筋書きの作品も多い。

恐らく、完全に外部との交流を絶って自室に引きこもらなければこれらの外的要因によるプレッシャーから逃れるのは不可能だろう。そうして更に悩みの方向は自分自身を向くようになっていく。

やがて「非モテ」による自分自身に対する「悩み」が、自己防衛本能が働くなどで「怒り」へと変換された場合、事態はより悪化していく。先ほど挙げた感情を持っていたような人であれば、以下のような気持ちを持つようになるかもしれない。

・現代における「一般的な成功者」への憎悪

・「容姿 / 性格 / 職業 / 資産 / etc..」で恋愛対象を判断する人々に対する憎悪、あるいはその「判断される」という構造自体に対する不平等感

・自らが考える「理想的な男性像」の追求(それ自体に問題は無いかもしれないが、追求する方向によってはいわゆる「有害な男性性」の増強へと繋がっていく可能性がある)

・コミュニケーション能力が高いと感じる人々に対する偏見や憎悪

・「恋人がいる人物 = 充実した生活」という前提と、それに対する敵意

・過去の恋愛に対する(時には加害性を伴う)異常なまでの執着

etc…

念の為に書いておくが、「非モテ」に悩む人々の全員がこれらの感情を抱いているわけではない。とはいえ、このような感情自体は決して珍しいものではなく、私自身も上記のような感情を抱いてしまうことがある(私は2010年頃からtwitterを続けているが、その中には恐らくそういった感情が表れてしまっているツイートが存在するはずだ)。

そして、これもまたSNSなどのソーシャル・メディアが普及したことにより可視化され、例えばインセル思想などのようにコミュニティという規模で支持されるようになり、時には極めて偏った思考へと向かっていくことがある。

こうなってくると、もはや「フェミニズム」を敵視するケースへと発展していくことも珍しくない。彼らの中で「我々は女性に差別されている」という結論に辿り着いてしまったためである。そして、「非モテ」に悩んでいる私自身がその方向へと向かっていくという危険性もゼロではないのだ。

(少なくとも今の)自分がそうなっていないのは、冒頭で述べたようにかつてポップ・カルチャーを通して、疎外感を感じていたとしても自らを肯定して良いのだというメッセージや、人々は平等であるべきという言葉に共感を抱き、力をもらうという経験があったからだ。

だが、それは理想の世界と、生きづらさを抱えている現実の狭間で板挟みになっているという意味でもある。「女性の立場になって考えよう」などと言っておきながら、恋愛=女性に救済があると信じて / 信じさせられて、そこに依存している。

もしも更に年齢を重ね、より大きなプレッシャーを感じて耐えられなくなった時には、もしかしたら一線を超えてしまうかもしれない。そして、そういった人々の存在は決して珍しいものではないのではないかとも感じている。

だからこそ、まずはその生きづらさの要因を一つずつ丁寧に解体し、「非モテ」という言葉で覆ってしまった問題の本質を見つけに行く必要があるのではないだろうか。そして、やはりそのヒントもポップ・カルチャーの中に見出すことが出来るかもしれない。

「規範」を解体するポップカルチャー

「アイデンティティ政治」が定着した以降の現代では、これまでの長い歴史で築かれてきた様々な「規範」を解体していく傾向があるように感じられる。

例えば、2010年代後半にリル・ピープなどのラッパーが牽引した「エモ・ラップ」というムーブメントでは、多くの男性ラッパーが恋愛における弱々しい感情や、孤独、そして時には自殺願望を抱いてしまうこともあるといった生きづらさを率直に歌い上げたことで多くの人々の支持を集め、今なおマッチョイズムと結びつきの強いヒップホップ・カルチャーの中で「弱音を吐く男性」の姿を肯定した。

また、2000年代当時は「男らしくない」といった批判を受けていたリンキン・パークやマイ・ケミカル・ロマンスといった孤独や疎外感を歌っていたロックバンドが、彼らに影響を受けた後進のアーティストや、当時、彼らの音楽を聴いて救われたと語るファン(筆者もその一人だ)の手によって正当な評価を受けつつある。以前はためらわれる行為だった「男性が生きづらさを語るということ」自体が自然なものとして受け入れられつつあるのだ。

また、フェミニズム的な潮流がもたらした成果として、必ずしも結婚を人生のゴールであると捉えない、一人で生きるという選択を肯定する作品も近年では強く支持されるようになってきている(例. 映画『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』)。

日本国内においても、恋愛など一切気にせず元気でポジティブなオタク生活を過ごす日々を描いたエッセイ漫画「裸一貫! つづ井さん」(つづ井)や、理想的な孤独死へ向けて邁進する30代独身女性の姿を描いた漫画「ひとりでしにたい」(カレー沢薫/ドネリー美咲)といった作品が人気を博しており、そういった変化が起きているということは、少なからずシスヘテロ男性である自分にとっても「結婚」に対する比重の重さを軽減する効果があるように感じられるのだ。

そういった一つひとつの「規範」の解体が進むほどに、「非モテ」に悩む自分自身が少しずつ楽になっていくことを実感する。そうしていくことで、「非モテ」という言葉の影に隠れてしまっている「本当の問題」がよりクリアに見えてくるのではないだろうか。そうすれば、自分なりの社会との折り合いを付け方を見つけ、板挟みのような感覚を抱かずに力強く理想へ向けての歩みを進めていくことが出来るのではないだろうか。

これはあくまで単なる私個人が抱いている希望的観測にすぎないし、他の「非モテ」に悩む人々にとってのヒントには恐らくならないだろう。だが、あくまで自分自身を救済するために、今はそのように生きてみようと考えている。だからこそ、私自身もまた、ポップ・カルチャーから受けた力を元にしながら、自らを縛っている「規範」を解体する一人とならなければならないのだ。

執筆=ノイ村


視覚障害者への情報支援「Be My Eyes」(iOS、Android)

現在、多くのアプリが世に出回っていますが、その中には社会のバリアを軽減するようなものもあります。そういったアプリの中で、手軽にボランティアとして関われるものとして「Be My Eyes(ビーマイアイズ)」をご紹介いたします。

このアプリは、視覚的な情報サポートを必要としている視覚障害者と、音声通話ができる晴眼者(目が見える人)をつなぐアプリです。

メールアドレスがあれば登録できます。使用言語を設定し、アカウントを登録した後は通知を待つだけです。ポップアップ通知をタップ。


フェミニズムは明らかに日本国内の空気を変えたと感じる。

フェミニストとして表明する/しないに関わらず、女性をモノとしてしか見ていない、同じ人間として見ることのできない男性たち、そして男性優位社会への忌避感が強くなった。

では、そんな男性たちはフェミニズムによって何かが変わったのだろうか。

起きたのは変化ではなく変化への違和感、抵抗感だった。

女性蔑視に偏った男性たちは、フェミニズムの主張そのものに拒否反応を示し、これまで以上に女性への憎悪あるいは無関心へと、海に沈めた石のように深く潜っていった。

一方で女性たちの立場を知り、自分自身も変わっていかねばならないという姿勢を表明する男性たちもいる。そういう男性たちは自罰的になる傾向がある。

だが、そのアクションは女性たちの方を向いているのだろうか。これまでの自分の行動に対する罪の意識にとらわれ過ぎて、自分を罰するだけで留まってはいないだろうか。

フェミニズムに直面した男性たちの防衛本能

日本で生活してきた男性たちにとってはフェミニズムに急に直面させられている実感がある。ソーシャルメディアを通じて眼前につきつけられたものに困惑し、どう対処していいのかわからないというのが本音なのではないか。

男性、とりわけシスヘテロ男性たちが感じているものはおそらく「当惑」、そして「混乱」である。あるいは断罪されるのではないかという「不安」だ。

身に覚えのある/ないに関わらない過去の言動や肉体的な接触。自ら無意識に行った女性たちへの侮蔑。それが「過度に内省的な」男性たちを苦しめる。

正義感が強かったり、社会におけるモラル/規範に従って生活してきた男性ほど、女性がこれまで遭遇していた不寛容さに自分も与していた事実に対しての罪悪感が強まる。

女性をモノ/商品/トロフィーとしてきた心覚えが「原罪」を自覚したかのように強くのしかかってしまうのだろう。

自罰とは防衛本能から起きるものであり、思考を後退させかねない負の側面が大きい。罪悪感は人間を無力化してしまう。

それまでの自己を振り返って内省すること自体は重要だが、もっと重要なのは自分を責める事よりも社会のあり方を変えていくことだ。そして女性差別に限らず様々な差別が行われる局面で無視をせずに実声をあげてそれを批判することにある。

それはエゴか?差別を解消するための一歩か?

被差別者に対して「自分はこうすればいいと思った」「こうすることができる俺カッケェ」というエゴ、ナルシズムに浸って接するのではなく、差別に遭っている人間の立場にたって「どうすればその人が逃れられるか」「安心して日常に戻れるか」を考えて実践する。自分がしたいことと他人がして欲しいことには差があるのだと自覚するべきではないか。

「女性にも平等に配慮する社会を目指す」と公言する会社や学会の役員が全員「中高年の男性」である光景をよく目にするが、「フェミニズムについて考えよう/立ち上がろう」というイベントやコミュニティが男性たちだけで構成されてしまうことにも私は違和感を持つ。Choose Life Project「#変わる男たち」のイベントが発起した際に感じたのも「それ」だ。

そこにあるのは男性として女性側に承認、あるいは免罪してほしいというアピールではあるまいか。ホモソーシャルとまではいかないが、女性に好かれるためにシス男性が纏おうとする「フェミニズム」には料理をしたことのない人間の描く料理漫画のようなぎこちなさ/唐突さを感じる。

一人の「人間」として想像力をもって人を見る

「変わろう」としても人間がそれまで生きてきた経験/実践を超越して理想的な人間になれるはずはない。いつかどこかで差別をしてしまう瞬間もあるだろう。それが人間だ。

女性に対しての態度のみ改めていこうとする姿勢では、女性の感じる社会の不寛容さは解消されない。それは女性を人間として正面から見ないことと同義だからだ。

LGBTQA、様々な人種や生まれ育ちの違い、肉体や見た目に対する差別など、あらゆる差別に刮目しなければ、人権の平等さは存在しえない。

結局のところ、「女性」という視点でしか見ないうちはフェミニズムの目指すところには到達できない。あらゆる人間を「人間」として見れるようにならない限りは相互理解も対話も起こり得ずに「分断」と「断絶」だけが生まれる。

日本で人権やダイバーシティに関する価値観が進歩してからまだ間も無い。企業のコンプライアンスの中に組み込まれはしても、それは社会のコモンセンスとしてはまだ機能を果たしていない。

これが日本の文明社会の規範となるにはまだまだ時間がかかる。それでも少しづつ変わってきている。各個人が道徳規範の上で自分たちの思ったことを言うことができる時代のうちにまだ浅い人権に対しておのおのが根を張り、幹を育てていけるような社会にしていきたいと思う。

そのためには何からはじめればいいか。自分以外の人間を見下すのではなくどんな人間なのか想像していくことだ。レイモンド・チャンドラーの言葉を借りるが、「やさしくなければ生きていく資格はない」。

執筆=BATI
トップ画像=Unsplashより

Sisterlee(シスターリー)

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